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2016/12
22
[ #894 ]

今年も暮れました・・・

 最近、日が落ちるのがえらく早いと思ったら、昨日は冬至なのですよね。今年も暮れました。

 そういえば、古来ヨーロッパの民間信仰では冬至を新年(或いは晦日)としていたとか。
 確かに太陽信仰、太陽暦から考えればもっともな事と思えますが現在では一週間余りずれていますよね。どうもこれはグレゴリオ暦を導入した際、春分の日を基準にしたことに拠るものだそうですが(ユダヤ教等では春分を重要視していた故とか・・・・)、冬至を年の境目とした方が自然で解りやすい気がするのは私だけでしょうか?
 

 また蛇足乍、正教圏ではグレゴリオ暦導入が遅かった故カトリック圏よりも更に1週間程遅れています。


 因みにわが国だと・・・・・。

 昔は旧暦ですので寒い時期の新月朔日、今の1月末くらいですかね?
 また節分という見方もあり、二十四節季の節分は2月3日。これは体感的季節感に拠る物ですかね?新暦の1月後半の一年で最も寒い時期を過ぎ、かすかに春の気配が萌す時期。これを春の初めとするのはいかにも自然と共に生きてきた日本的・アジア的で良い気がします。
 

 その日本でも今では新暦一本やり・・・・確か明治6年の元日でしたかね?新暦に切り替わったのは・・・?

 その後もしばらくは、七夕やひな祭り、盂蘭盆会等々の民間行事は旧暦で行われる事が多かった様ですが、現在では殆ど・・・・。
 それでも宮島の管弦祭等は旧暦ですよね(潮の満ち干が重要な祭りですからね・・・・、外、智頭辺りの雛流しも旧暦でしたかね?)。


 では明治の新暦導入後も旧暦で行われていた民間行事が新暦に切り替えられたのは何時頃からだったのか?というと・・・・、どうも1907年辺りからの様です(地方改良事業)。
 日露戦争の終結を切欠に農村のシステムを国からのトップダウンに組み込むためとか・・・・(この際、柳田國男等の民俗学が協力したとかしないとか・・・・)?


 何故こんな事を書いているかといいますと、最近のニュースで除夜の鐘を取りやめる地域が(うるさいという苦情ゆえ?)出て来たとか、民間でも餅つきを取りやめようという動きがあるとか(衛生面?)といった事を聞き及び・・・・。
 何といいますか・・・・という気分でして・・・・。


 そう、日本の民間信仰や慣習・習慣、地域文化というもの、明治初期の新暦導入&近代化~、明治末から戦前の民間改良策~戦後のアメリカ型民主主義の導入~1955(昭和30)年の保守合同に拠る更なるアメリカ化・自由主義化・・・・といった感じで消されていった気がするのでね。

 そして現在、それらと同様の波が来ているようにも・・・・・、今回はグローバルという旗印の下・・・・。


 一寸不安になるといいますか・・・・・。


 歳の切り替わりの時期故かそんな事を思ってしまいました。


 
 追記、

 個人的には今年は矢鱈と物が壊れた1年だった気がします・・・・。

 オートバイのステーが断裂した話は先日書きましたが、今年後半は思いつくだけでも、自宅のTV、ホットカーペット、ファックス・・・・等々と、兎も角電化製品が片っ端から壊れた印象、来年は何とか良い年になってもらいたいのですが・・・・。



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2016/11
10
[ #882 ]

そういえば

 アメリカ大統領選も終わり、メディア等に拠れば(”大番狂わせで”???)次期大統領がトランプ氏に決まったとか・・・・。
 何はともあれ少しは気に成り久々にニュースや情報番組を割と観ておりました。

  
 しかし、久々にTVのニュースや情報番組を色々観て感じたのは、TV等の大手メディアの”いい加減さ”といいますか”無責任さ”といいますか、”性質の悪さ”といいますか、”質の低下”といいますか・・・・、そんな印象ばかり強く感じてしまいましたね(まあ、本来マスコミなんてそんな物でしょうが・・・・、その昔は”新聞ゴロ”なんて言葉もありましたし・・・)。

 一部の映画やドキュメンタリー以外、もうTVはいいかな?という気分ですね。

 
 

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2016/05
31
[ #830 ]

ひとりごと

 最近TV等で車やオートバイの事故のニュースを耳にする事が多い気がします。
 バスやトラックも含め・・・・・。
 実際に事故件数が増えているのかどうかは判りませんが、ニュースとして取り上げられる事は多い気がします。

 確か今日もタクシーが分離帯に衝突し客の会社役員が亡くなったとか、リムジンバスが運転手の体調不良で事故を起こしたとか・・・・。また、昨日のニュースだったと思うのですが群馬辺りで、軽自動車とオートバイの右直事故で4名亡くなったなんてニュースも・・・・。
 また確か先月でしたか?箱根ターンパイクでポルシェを試乗中の自動車評論家が単独事故で亡くなったとか・・・・。

 
 トラックやバスといった所謂プロドライバーの事故に関しては、規制緩和や労働環境の問題(更にもしかすると・・・?)について語らざるを得ず、中々難しい事もあり置いておくとして・・・・・。
 また、私のような人間としてはそれ以外の事故のニュースの方が耳に付く訳でして・・・・。

 そこで、確か以前にも気になると書いた記憶の有る自動車評論家の単独事故の事。
 これが気になったのですよね。


 恐らく世間では”公道でとんでもない速度を出し自業自得だ、とんでもない所業だ・・・・” といった意見が唱えられていたであろうと思いますし。またそうした行為を職業としている自動車評論家という物にたいするバッシングもあったのでは?とも思えます。


 が(まあそうした言い尽くされたステレオタイプの事を書いても仕方ないですし)、このニュースを聞いて個人的に思ったのは、この亡くなられた方、恐らくは”魔が差した”のだろうな・・・・という事。


 試乗車を公道である程度攻め込んで記事にするという事を職業として長年されて来た方でしょうから、ああした事故に繋がるような走り方をする必然性が無い事、また其のリスクは熟知されていた筈でしょうし、何せそれで口を汚している方ですからね・・・・。
 それが何故事故に?というと・・・・矢張り”魔が差した”としか思えないのですよね(勿論、何かしらの機械的なトラブルの可能性もゼロでは無いでしょうが・・・・)。


 例えば(最近は余り観ないですが)モータースポーツ等でも”何故そこでそんな無理をする必要が有るんだ?”と思える状況で無理をしてクラッシュする選手ってしばしばありますよね・・・・。或いはエンジンを壊したり・・・・(後で監督やオーナーから何か言われるんだろうな・・・・何て思ったり)。
 まあ、最近はそうした事をする選手も少なくなった気もしますが・・・・。

 また、モータースポーツに限らず、他のスポーツでもそうした凡ミスをする選手も減ったような。
 恐らくは各種メンタルトレーニングのメッソッド、ノウハウの向上何て事が理由として有りそうです。また、殆どのスポーツにプロ団体が存在するようになり、そうした(凡ミスのある)選手は上にいけない面も増えているのかも知れませんし。
 そう、プロって職業(ビジネス)ですから、ミスは許され辛いでしょう。

 そこはしかし人間、やはりたまには魔が差したり、凡ミスもあるから人間らしい気もするのです(サイボーグじゃ無い訳ですから・・・・)。それにそうした選手故に魅力的な面もありますよね(例えば昔のF1のN=マンセルとかね)?。


 何だか話がそれてしまいましたが、そんなこんなで事故死した自動車評論家の方、正に魔が差したのでは無いか?と思った訳です。其処まで攻める必要も無い状況で何故かやってしまった・・・・と。
 (そしてまたある程度判っていたゆ故、他の車が殆どいない場所で、そして単独事故だったのでしょうし)


 私も若い頃結構経験が・・・・・。

 其処までペースを上げても仕方無い状況で(一般道は押しなべてそうですが・・・・)、ペースを上げて転倒とか。草レースで凡ミスで転倒とか・・・・散々やってきた気がします。(まあお蔭様でこの20年余り、一般道で転倒してませんが。少しは学習したか?)

 でも人間なんてそんな物な気がします・・・・。


 ただ、余りに高性能な自動車やオートバイは其のときのリスクが高い訳です。
 またそれ故に魅力的な訳でもありましょうが・・・・。


 まあこんな事を書くと、公道でとんでもないスピードを出して何考えてるんだとか、とにかくスピード違反=絶対悪といった非難がありそうです。
 或いは、交通法規を守らない人間=絶対悪といった非難が沢山来そうです。

 更に言えば最近。ともかくルールを守れ、あるいはルール違反だ、と他者を叱責、攻撃する論調、人が増加している気もします。


 まあ、確かに正論かも知れませんが・・・・・。



 しかし、思うのですよね・・・・・・。


 ルールって、所詮は人がご都合主義で作った物では?何てね(特に最近)。

 (とは言いましても、別に私自身ルールに従う事はやぶさかでは無い人間の心算でもあります。結構、硬いとか真面目と評されている気も・・・・)。
 
 
 それに、道交法を全て熟知し全く僅かな違反もせず走っていいる人って無いと思えるのですがね。
 たとえ無事故無違反だとしても。(この場合の無違反=無検挙という事でしょうし・・・・。またもしそんなドライバーがいたら、結構迷惑かも・・・・・ 笑 )
 
 それに、制限速度や道交法を遵守していても事故はゼロにはならないでしょうし・・・・。


 こうした事を書きますと非難を受けそうでもありますが、道交法に限らず成文法という物(或いはルールという物)、言ってみれば”手段”ですよね?
 違う言い方をすれば、道具、ツール・・・・・。

 詰まり目的ではない訳でして・・・・・。


 別に道交法を守るの事を目的としてハンドルを握る人はいないわけでして・・・・。
 目的は移動であったり、楽しみであったり、仕事であったり・・・・・・。
 別の物ですよね。


 そして道交法(ルール)という手段の目的は、道路を使用する人々がより快適にスムーズに不快でなく安全に等々・・・道路を使用する為ですよね。

 故に極端な言い方をすれば、砂漠や原野の中の見通しの良い一本道(で他に車や人がいない)ならば、別にどんなスピードを出して問題ない訳で・・・・。
 他者(被害者)は存在しない訳ですから。

 言い換えればこの他者の存在に対する想像性が社会性の基本とも言えそうで・・・・。(詰まりルール厳守主義=社会性とは一寸異なるといいますか・・・・・)


 現実もある面そうですよね、皆が快適で事故が無ければ、其の瞬間は道交法は余り意味を成さないわけで・・・・。


 また道交法で限らず法律(成文法)という物、一つの社会、枠組みにおいて、其の構成員が拠り快適に生活出来る事、無益な争いを減じる事、幸福に活動できる事・・・・・等々を目的として制定された道具な訳でして・・・・・(或いはだった?)。


 理想論を言えば、成文法なんて存在しなくても皆が幸福に暮らせる社会の方が、そりゃ快適ですわな。
 大体、有史以前なんて成文法なんて無くても皆暮らしていた訳で・・・・。江戸時代の庶民も成文法なんて余り関係なかった筈ですし、故の天下泰平とも言えそうですし・・・・・。


 そしてこの目的(皆が快適であること)を忘れた、手段。それは一言で言えばやはり単なる力すなわち”暴力”となる気がするのですよね。

 
 何だか話がずれてしまいました・・・・(何時もか・・・・)。



 しかし、先日の群馬の右事故といい昨年のこれも確か群馬のオートバイ同士の正面衝突といい、オートバイの事故の報道が耳に付くのも事実。

 そう大型のオートバイ、高性能なだけに何かあると残酷な結果が待っているのですよね。

 それ故により社会性(他の車の存在)を留意しなければならない乗り物。
 大体、物理学の法則には勝てない訳ですし・・・。
 
 まあそれでも、或いはそれ故魅力的な訳で・・・・。


 其の当たり覚悟して乗るしかない訳です。あるいは乗り続けましょうね。



最近オートバイを引っ張り出そうとすると雨なので、変わりに詰まらない事を長々と書いてみました。
 

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2016/04
14
[ #816 ]

ゴールデン街

 ここ数日私の琴線に触れるニュースを幾つか耳にした気がします。

 その一つが”新宿ゴールデン街”の火事のニュース。
 新宿ゴールデン街、良く飲みに行った訳ではないですが(何せ田舎者ですので・・・)、その言葉(新宿ゴールデン街というキーワード)から惹起される物・イメージ等々といった物に強く惹かれる面が有るのです。
 
 それを一言で表すには中々難しい物があるのですが、強いて言えば街場の魅力の様なものですかね?

 確か数年前から、”街場の文化論”といった雰囲気の言葉を耳にしたり、そうした切り口の本(新書等)を目にすることが多かった気もしますが、もしかするとこの街場の文化といったものを強くイメージさせる存在が、私にとっては正に”ゴールデン街”というキーワードなのかも知れません。

 街場の文化?といっても解り辛いかもしれませんが・・・・。

 例えば、文化や藝術、価値、意味といった存在。
 これらの中には、上で造られ、トップダウン的に広まる物も多い気もしますし、特に最近は其の傾向が強い気もするのですが、ある面その対極に有る物。

 もっと解りやすく言えば、政府や省庁で決められた価値観や正しさ、学校教育等で教えられる正しさといった物(正義なんて言っても良いかも知れませんが・・・・)。例えば国宝や、成文法的な正しさの様なものに比して、ボトムアップ的に庶民の間から生まれてくる価値観や文化といった物。

 そうした物が街場の空気という気がしますし、そうした物が生まれそうな場所の象徴としてゴールデン街(や路地裏のバーや飲み屋)の存在がある気がしているのです。


 では何故そうした物が、ゴールデン街の様な場所で生まれたのか?あるいはそう思えるのか?


 狭いカウンター主体の飲み屋。
 そこでは、出自や価値観、帰属の異なる個人同士が会話する空間。

 そこで会話が混ざり合い、互いが刺激となり、新しい見方が生まれ易いという事なのでしょう。

 勿論、何処でもそれが可能か?というと難しいかもしれませんが、それが東京の新宿の路地裏的な位置であったゴールデン街故に拠り生まれ易かった様にも思えるのです。

 
 もしかすると、この街場という言葉の対極はある種の”村”という言葉で表される存在、枠組みかもしれません。

 
 話は少し変わりますが、田舎や村に対し、街とか都会という言葉で表されるもの、それは異なった仕来りを持つ個人が混在出来る空間といい得るかも知れません。

 村という言葉で表される様な共同体は、基本的に構成員に対し同じメンタリティーを持つ事を強要しますよね(同調圧力なんて言葉も使われますが)、勿論それはそれで意味のある事とも思います。
 それに対し、街という存在は、出自の異なる個人が共生する空間、そしてそれ故、互いが争いを減ずる事が出来るように新たな作法が生まれてくる訳で、いわばそれが街場(都会)の空気といっても良いかも知れません。


 例えば江戸時代の江戸、日本各地から参勤交代等で武士が訪れ住んでいる訳ですし。また町人や庶民も全国から集まって暮らしている訳です。そして、それぞれに故郷の価値観や仕来りを持っている訳ですが、それを他者に押し付けると当然争いになる。

 解りやすいところでは、酒に酔うという行為。
 村社会では、”ハレ”の日等に村人全体が酔っ払う(泥酔も可)という事が正しいやり方ですが、それを都会でやるとどうなるか?
 もしかすると、隣の人は”ケ(日常)”かも知れません・・・・・。
 それが理解できないと、当然揉め事の種になる訳でして・・・・・。

 また江戸の庶民文化、例えばその代表的な存在の”狂歌”なんて物も、多くは、遊郭等で誕生したりしている訳です。
 町人や武家等、立場の異なる人々が肩書きを越えた個人として集い、生み出した文化。
 またそういった物が生まれやすい、茶屋とか遊郭的空間・・・・。
 (もしかすると、往時のモンマルトルやモンパルナスもそうかもしれません)


 政府が決めた価値観を押し付けれれる訳でもなく、組織(村)の同調圧力にがんじがらめでも無く、良い意味で自由な個人同士の会話から生まれる空気・・・・・。


 私にとっては、そうしたイメージの象徴がもしかすると”新宿ゴールデン街”という”キーワード”なのかも知れません。
 或いは、街場とか、路地とか、場末とか、そうした場所のバーとか、飲み屋とか・・・・・・。

 私がやっている店も、古い木造二階建ての一角、そうした面でも今回の火事のニュースはやはり気になった訳です。


 また最近、日本各地で、耐震問題や消防法がらみ、或いは相続等の問題か?空き家問題がらみか?
 兎にも角にも、古めの建築物(や店舗や学校、旅館等々)が、次々と閉鎖されたり、取り壊されたりといった事も耳にします。

 そうした事も、また、気になった理由でもあるのです。

 なにはとまれ、全焼とならなかったのは不幸中の幸いでしたね。



 他にもうひとつ、モータージャーナリスト事故死というニュースも個人的に気になったのですが、これまた長くなりそうなので、日を改めて・・・・。


 相変わらず、思いつきで書いてまとまりの無い文章になってしまいました・・・・。

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2014/08
29
[ #641 ]

飲食店?

 恐らくは一月ほど前の事ですかねですかね?通勤に使っている道の側に回転寿司のお店がオープンしたのは。

 ほぼ毎日その前を通るのですが、入りやすい立地とは思えない割りに駐車場には常に多くの車や自転車が・・・・。
 流行っているのですね~等と思って眺めていましたが、先日たまたま連れ合いを乗せその近くを通る事があり「一寸入ってみる?気になるし・・・」という事で、店内に・・・・。


 少々驚きました・・・・。


 店内に入りますとレジ&受付の様なスペースが在り、そこにレジ&フロア係と思える女性スタッフが2人程・・・・。
 そしてこの2人以外の店員の姿は全く見えないのです。
 2人で入店ということでしょう、テーブル(BOX)席に「こちらです」と案内され・・・・、


   以上!



 そのうちに両隣の席にもお客様が入られた感じでしたが、衝立越しなので微かな気配を感じるばかり、通路を挟んだ席(向こう三軒?)は空席だった事もあり他人の姿は一切目に入らず。
 目の前をひたすら、コンベアーで寿司が流れていくばかり・・・・。
 そしてその上方にタッチ式の液晶モニター。
 注文・清算・メニュー確認等、全てこのモニター間に合います。
 更に皿を返却口に投入しますと、5枚ごとにその液晶画面でくじ引き(ゲーム)が行われ・・・・。



 これは何だ??? という印象。



 その雰囲気は飲食店というよりも・・・、
 パチンコ屋?(とはいってもパチンコなんて20年以上していないですが)
 あるいはゲームセンター?(これも20年以上行ってないですが)。
 はたまた、寿司の自動販売機?
 何ともいえない不思議な感覚。


 まあ実際には、コンビニエンス・ストアに近い方法論なのでしょうが・・・。

 入店~欲しい商品を手にし~清算~出店をするまで一言も口を利かなくても可能なシステム。一切の他者とコニミュケーションを取らなくても良い形態。(恐らくこの回転寿司でもそれは可でしょう、スタッフのマニュアル通りの案内に頷く~食べる~清算ボタンを押す・・・・・)


 私の思っている飲食店とは別の存在ですね、一寸驚きました。
 (現実にはインターネット・カフェ等か近い存在かな・・・)


 自分の殻、あるいは友達とか家族とかといった自閉的共同体のノリ、ひたすら内向きの視線や価値観で通用する空間。
 誰でも入れるパブリックな空間にも係わらず、他者や他人に一切の気配りをしなくても良い空間・・・。

 何といいますか、私がさせていただいています(カウンター・クローズド)バーとは180度逆の世界。


 コンビニエンス・ストアが全国に普及したのは80年代という印象(出来たのはもっと前)ですが、確かに楽で便利だったのですよね、他者とコミニュケーションしなくても買い物が出来るって。
 そしてそれが当たり前になり、社会性とか他者への気配りとか作法の様な物が急速に衰退し・・・、恐らくはそれ故に接客に関するトラブルも増える(クレーマー問題とか・・・)。
 そこでそれならばと、更に出来る限りの接客を廃せばトラブルを減ずる事が出来る・・・。そういう解釈でよいのですかね?
 (究極の接客が接客をしない事になっている?) 
 これでレジ&フロアのスタッフが人型アンドロイドになれば完成かな?


 何といいますか・・・、凄い時代に成って来たなという印象。

 確かに最近、道を歩いていてもスマートフォンを観ながら歩いている人にぶつかられそうになったりといった事も増えましたが、同じような事なのでしょうね。

 そのうちスナックとかバーなんて存在も必要無くなるのかな?

 個人とか、身内とか、友達グループとか、ライン繋がりとか、そうした小集団の内側の価値観だけ見てれば良い社会。 

 確かに楽(らく)なのですが、楽(たの)しく無い気も・・・・。


 しかしそうした小集団から出れない人間、昔は田舎者と呼ばれた気もするのですがね・・・・。
 まあ、私も田舎者ではありますが・・・・。(社会性も欠如気味?)

 昭和の人間、時代遅れの人間の愚痴と聞き流していただければ・・・・。



 でも、少々驚いたのです。

 

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2014/08
04
[ #634 ]

わくぐみ

 先月も似たような事を書いたのですが、最近いやなニュースを耳にする事が多い気がします。
 佐世保の女子高生の事件、等々・・・・・。 何故こんな事になっているのか?

 少し考えて見たくなります(所詮は場末のバーテンダーの戯言ですが・・・・)。



 実は物事の”意味”(あるいは善悪)とは、ある種”わくぐみ”が決定している様に想うのです。
 勿論現在では法律(成文法)が決めていると言う認識(事)になっているのでしょうが・・・。
 (そういえば最近TV等で政治家の方々が矢鱈と”法の支配”という言葉を口にされる気も・・・・)

 しかし実は六法には”人殺しをしてはいけません” ”盗みをしてはいけません” 等とは書いてなかった筈です。
 唯、”人を殺した場合は何年以上、または無期の懲役、あるいは死刑に処す”とか・・・・。盗みの場合はどうとか・・・。
 言ってみれば、量刑が記されているばかりの様に・・・・。
 そして、何故人を殺してはいけないかという理由、根拠は、記されていない・・・・。


 こう書きますと、”それは法律ではなく宗教の役目である”といわれそうですが、まあそういう事ですね・・・・。

 つまり何が正しいか?といった事は宗教という”わくぐみ”が決定していた・・・・と言えそうです。
 (重ねて言えば、実は宗教も所詮は人が作った手段・・・・ともいえますが)

 また我が国では、西洋のように宗教(一神教)の影響は強くなかったので、それよりも世間様とかお天道様が見ているといった、いわばアニマが決定していた世界であったと・・・・(或いは村社会的、”世間”)。


 恐らく本来、この意味(善悪)を決める”わくぐみ”って、自然発生的であったのでしょう。
 地域に住む人々の間で時間をかけて成立していった物で、その土地の気候風土とか、人々のDNAや食生活etc により出来上がっていったもの・・・。
 またこういいますと・・・、それは”文化”とか”慣習”とか”しきたり”とか”作法”とかと言ったものではないですか?と言われそうですが、有る面そうした物が善悪を決定していたというか其処に現れていたというか・・・・。


 その後文明が発生(発達)し、異なる文化や慣習を持った人々が同じ地域(枠組み)で暮らすようになり、その習慣の違いから混乱や争いが起きる・・・・。そして、それを治める為に導入された(造られた)のが所謂”宗教”という物。

 例えば聖徳太子が17条の憲法の中で、3ぽう(=仏法僧)を敬えとしているのは、仏教的価値観をベースに善悪を決定します、という事でしょう。
 しかしその宗教(仏教)も、日本(等)の場合はアニマ=精霊信仰、先祖崇拝、無意識等に習合され(取り付かれ)こ異なった姿となっていく。
 まあキリスト教だって、ローマ文化やドルイドやその他のヨーロッパ各地の人々の慣習や文化に習合され微妙にかたちを変えていった様にも思えますし、ムスリムだって同様に・・・・・。


 ともかく、いってみれば昔は慣習(文化)といったやや抽象的で観点的なわくぐみが意味を決定していた。そしてその後はそれらと習合した宗教というわくぐみや領主制・王政・幕藩制etcが・・・。


 そして現代という時代は、その”わくぐみ”いわば文化を殺す事により成立してきたのですよね?

 言い換えればプロテスタンティズムやグローバリズムと言うものが文化や宗教や地域といったわくぐみを壊し、詰まり旧来の意味を破壊し、そしてその後に成立したのが現代でしょう。

 その旧来の緩やかなで適度な大きさを持った”わくぐみ”が壊された後に残ったのは、恐らくは”個人”という最小の”わくぐみ”。
 個人と言う最小単位が繋がり無く集まって出来た社会。
 現代は個人主義というのはこういったことでしょう。

 またそうした”わくぐみ(意味)”を失った現代社会において、個人間のエゴの調整システムとして導入されたのが、成文法(あるいは国際法etc)。


 昔は「何故人を殺してはいけないのか?」何て質問に対しては、「やかましい、そんなものは常識だ!」ですんでいたものが、近代以降は「ルールだ(法律で決まっている)から」ですよね(あるいは捕まるから、死刑になるから・・・)。

 あまり抑止力にはならないですわな 。


 本来、法律(成文法)なんて無くても(知らなくても)そうしたお約束(不文律)で世の中は結構幸福に回っていたのでしょうし、法律ってのは所詮は補助的な物でしか無かった筈なのですがね・・・・。

 それが現代では法律こそが唯一絶対的な物といった雰囲気・・・・(法の支配ってそういうことでしょ?)。

 手段が目的化したというか・・・・。



 特に私等は単車乗りでもあり、過去に道交法に拠り散々に免許停止処分等を頂いていますので・・・余計にそう想うのかも知れませんが・・・。 ( 笑 )
 
 交通取締りって、車に乗る上での作法や文化よりは、道交法のみが支配する空間ですからねえ・・・・。


 長くなりましたので、続きは次回にでも・・・(まだ、書く気かよ、私・・・。)

 
 

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2014/03
11
[ #586 ]

震災から3年

 今日であの震災から3年なのですね。
 広島の田舎に住んで居ますと、震災の話題を耳にする事も年々少なくなりまして・・・。特に私の様にカウンターの内側に籠っている生活をしていますと、TVを観る事も少なく震災関連のニュースに接す事も減った気がします。
  
 更に言えば震災や原発の事を話題にする事も、どことなく憚られる様な雰囲気も・・・。


 しかし、実際に東北に行って来られたお客様の話を聞かせていただいたりしますと「思った以上に復興が進んでいない印象を受ける」と言われます(たしか先日の世論調査のアンケートでもそうした意見が多数であったようで)。

 復興が遅れている理由は色々と有るのでしょうが、私としてはやはりどうしても「原発(事故)さえ無ければ・・・」との思いが湧いてきます。

 こうした事を書きますと「では、地震や津波で死んだ人の事は良いのか?」何て言われそうですが・・・。 
 確かに、地震や津波で亡くなられた方やその遺族の方の事を思うと胸が痛みます。


 しかし考えてみれば我が国は太古から、地震・津波・台風・火山噴火・大雨・・・といった天災の多い国土の上に成立し暮らして来た訳で、そうした天災のもたらす物に対する文化(儀礼・作法・慣習・思想・・・・)も持って居た訳でしょう。
 そして今回の震災に関しても、本来ならばそれらの儀礼等を通じて悲しみから立ち上がり、復興に向かえたのでは?と思えるのです。

 原発事故さえ無ければ・・・・。


 ではそもそも原発、或いは核エネルギーとは何なのか?

 私が思うに、それ(核エネルギー)は正に(現代)文明の象徴と言えるのでは無いか?という事。

 では、”文明”とは?
 
 これは言ってみれば”手段”であろうと。

 ”手段”?、何の為の・・・?

 それは、人類が利便性や実質的な力を増大する為に手に入れた”手段”である、と。
 (文明の定義付けは色々と出来そうですが、文明=人類が自らの利便性や力を得るために生み出した手段、と考えるのが最もスッキリするのです)


 約1万年前の灌漑農法(穀物生産)から始まり、貨幣の発明、火薬、活版印刷、化石燃料の利用にに依る外燃機関・内燃機関、電気エネルギーの利用、通信技術、コンピューター、インターネット・・・、等々。 
 確かにそれ等は人類の生活の利便性を増し、豊かに、安定し、強い物にしたでしょう。

 しかしそうした”正”の面も生み出した同時に文明は”負”の部分も生み出したと思うのです。
 (恐らく、正と負は表裏一体、良い事を定義付けるとと同時に良くない事も定義付けられる様に・・・)

 そして現代社会は、この負の側面を敢えて見ない様にし、無視して成立して来た様に思えます・・・(2度の大戦を経験したにも関わらず・・・)。


 それが3年前、その負の側面を現前に突き付けられた訳ですよね(放射性物質等々といった形で)。
 そして、その余りの大きさに立ち竦んで居る(或いは、慌てて無かった事にしようとしている。覆い隠そう。無視しよう。忘れよう。または何とかしよう。・・・・としている。)。
 
 
 言い換えれば我々は、原発に象徴されるような現代文明に対する”文化”を築け無かった、という事なのかも知れません(余りに文明の進歩が早かったということもいえそうですが)。

 では、これから築いてゆけるのか・・・・?

 震災から3年。そんな事を思いました・・・。

 ますた

 

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2014/02
28
[ #583 ]

ソチ五輪も終わりまして

 ソチ五輪も終わりましたが、今回のオリンピックはつまみ食い的に結構TV中継を観た気がします。
 仕事を終え深夜に帰宅しますとちょうど何かしらの競技を放送していまして・・・。
 そして見始めるとスポーツって、やはりと言いますか結構面白いのです(お陰で少々寝不足気味だった気も・・・)。
 

 では?観た競技の内でどれが好みか?と聞かれますと・・・、やはり昔ながらのアルペンスキーと成りますかね。

 あのタイム(時間)とか、コースという物に対し恐怖心を押し殺し、肉体を駆使して挑んでいく選手の姿にはやはり惹かれるのです。
 モータースポーツ(特に二輪)のタイムトライアルと似た雰囲気という事もお気に入りの理由かも知れません。
 早い者勝ちってのもシンプルで良いですしね。その辺り最近多いジャッジスポーツ(尤も最近はダンスを齧ったりもしていますので、それはそれで楽しめるのですが・・・)よりもやはり好みです。

 こう書きますと、では”スキークロス”何て競技の方がよりモータースポーツ(レース)ぽくって良くないですか?何て声も聞こえそうですが・・・。
 確かにスキークロス、判り易くて面白いのですが、この判り易過ぎる事が少し好みと違うと言いますか・・・。
 判り易い競技って、その判り易い見方に切り口が限定される気がするのです・・・。
 
 昔、TVでレース中継等を観ていますと「同じ所を似たような車がグルグル回っているのを観て何が面白いの?」なんて言われる事がよくありましたが、その単調さを主観的に解釈出切る面が結構面白かったのです。


 
 また”4人乗りボブスレー”も非常に印象に残っています。
 競技(レース)自体が面白いというよりも、その競技中の雰囲気、TV画面を通してもその雰囲気の良さが伝わって来た気がします。
 何というか、選手だけでなくスタッフ(ピットクルー?)や運営側、観客も含め、全員が根っからボブスレー好きな感じで・・・、そうした方々が和気あいあいと楽しくやっている雰囲気。これに惹かれましたね。
 勿論”国の威信を掛けて”何て意識も有ったのかも知れませんが、それ以上に好き物が集まって楽しんでいる感じが良かったです。
 これこそスポーツの原点と言いますか、草レースの楽しさと言いますか・・・・。兎に角、良かったのです。

 そんなこんなで、ソチ五輪、結構楽しく見れたのは確かです。
 唯、苦手だったのが、競技と競技の間に挟まれた解説といいますか、ワイドショー的バラエティー的放送。
 所謂タレントとかアナウンサー等が(盛り上げようと?)喋られる部分(この盛り上げる・盛り上がるといった言葉も好きになれない言葉では有るのですが・・・)。苦手と言いますか、不快ですね(TVを消す切っ掛けには丁度良かったとも言えます)。

 
 そこで思い出したのが、昔のF1中継。確か89年シーズン辺りの事だと思うのですが、某プロレス中継上がりのアナウンサーが起用された時の事。それと同じ印象。
 (確かその時放送をしていたTV局、開局始まって以来の抗議の電話の数を記録したとか)
 
 別に貴方(アナウンサーやタレント)に見方を強制されなくてもレース(スポーツ)中継くらい、自分で能動的に観れますから!といった気持ちでしたね。
 元来TVとは非常に押し付けがましいメディア。活字を読むように能動的に接す事が難しいのですが、更にそこで押し付けがましく見方を強制されますと・・・。

 今思えば、どうもその頃からF1中継に対する興味が少しづつ減じていった様にも思えたり(店を始めて以降は殆ど観ていません)。
 
 そして先日「RUSH」という映画を観に行き、”もしかしたらF1や他のモータースポーツ、放送のあり方に関わらずレースその物が昔の方が面白かったのでは?”何て想いも湧いたのです。
 その辺りの事も書きたいなと想ったのですが、長くなってしまいましたので来月辺りから・・・。まあボチボチと・・・。
 当時の雑誌等全く残して無いのでアヤフヤな記憶が頼り、いい加減な話にはなりそうですが・・・。




 追記

 

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2013/02
03
[ #461 ]

あるコラムを読んで

 1月余り前、昨年の年末辺りの某新聞コラムに興味深い事が書いてありました。


 それは、衆議院総選挙を経て成立した自民党内閣は”ヤンキー”内閣では?といった内容だったのですが。久々に面白く思えました故その事を少々・・・。


  そのコラムの内容、掻い摘んで記せば、

 この選挙で自民を支持した層は地方の組織票で、それは中学校時代の不良が地域に残りヤンキー的保守と成った人々が中心と成った組織の票である。

 そして、それらの人々の特徴は・・・、
・気合とノリがあれば何とかなる ・理屈をこねている暇があったら行動しろ といった”反知性主義”であり、また徹底した”実利主義”である。
・またそれは、日本に古くから根付いた物であると同時に、彼らの言う伝統とは、実は3世代程度しか遡れない物である・・・。

 といった内容であったと記憶しています。

 

 このコラム、それはそれで首肯できる面もあり、多少物足りない面もまたあり、また色々と考えさせられる面もありまして・・・。


 このコラムの中で、そうした地域のシステムが治安維持にも貢献している伝統的存在といった部分があったのですが、それは恐らく、江戸期から続く自身番であるとか、町や村の自治組織(若衆組等)の事を想像されているのでしょう。

 では、この江戸期の町や村とはどのようなものであったのか?


 先ず基本的に物事の意味を決めるのは、その枠組みであると思えます。(名前、肩書き等々と言っても良いかも知れません)
 またその意味こそが、何が正しいか?あるいは何をすべきか?といった事を決定する。

 また、その枠組みを決定し保障するのは、アニミズム(的無意識)や共通体験やそこから生まれた慣習であるとも思えます。

 昔、お米を粗末にするとお米の神様がお怒りになり目が潰れるよ。とか、台所には台所の神様が、雪隠には雪隠の神様が居るとか。あるいは、本・書籍を跨ぐものでは無い・・・等、教えられましたが、そういう事です。

 わが国はすべての物に精霊が宿る国、といわれるのもそういう事でしょう。
 日本はそこかしこに妖精の棲む国、と言ったのはイザベラ=バードでしたか?それも、そうした意味でしょう。

 
 そして江戸期にはこのアニマがしっかりと存在感を持っていたという事。


 またこうも言えるかも知れません。江戸期にも色々の自治的枠組みが存在したが、その中心と成ったのは村や町であったと。
 そして、その構成員の組織への帰属意識を担保するのは、共通の体験とか、共通の記憶、そして共通のアニマ(神)であり、そのアニマを保障するのは、各地の神社・祠・鎮守の森・そして祭りであったと。
 (言い換えますと、これが昔の神道ですかね)


 その後、江戸末期から明治初期に架け西洋から流入した近代合理主義、或いは科学といった物が、それらの精霊、神々という物を無効に(殺)していった訳ですよね。
 それにより(アニマ的)物事の枠組み、意味というものが非常にあやふやに成っていった。

 意味があやふやになるという事は、何が正しいかの価値基準も変わって(あやふやになった)しまった。

 そうした状況は人々を不安にさせ、その不安に感じた人々、精神的に不安定になった人々はどうしたか(或いは何が彼らを取り込んだか)?


 勿論第一は、その西洋合理主義とも思えますが、この時期他に代表的なものの一つが、新興宗教でしょう(たとえばT教とかO教)。または自由民権という思想もあったかもしれません・・・。


 しかしその後、明治後半から昭和の初めに掛けて色々の物を取り込み、唯一無二の枠組みと成立して行ったのが、国(国家・国体)という枠組みであったと思えます。(それは同時に地域・地方という枠組みを弱める面もあったかもしれません)

 そしてその枠組みを意味付けたのは、明治に作られた国家神道という(新興?)宗教。
 (故に太平洋戦争の末期、特攻というジハード的行為も生まれた訳ですし、特攻隊員という殉教者も生み出したのでしょう)


 それが敗戦により、その唯一無二と思われた国家という枠組み(意味)が否定される。(消えてなくなる。)
 
 当然、多くの人々(庶民は)精神的に混乱し、不安定となる。

 で、その人々を取り込んだ(縋った、依存した)物は・・・・。

 思いつくまま記しますと。



 ・明治維新の混乱同様に新しい宗教。(たとえば S とか)

 ・進歩主義というイデオロギー。(それは、共産主義、マルクス主義、社会主義、或いは資本主義といった近代西洋思想)

 ・民主主義というイデオロギー。(それは、個人主義の別名でしょう。選挙の基本が一人一票である以上)

 ・自由というキーワード。(それは、自由貿易主義であり、ひたすらな蓄財を肯定する自由でしょう)(自由という言葉自体はもう少し深そうですが・・・)

 ・地域の枠組みの代わりをしたのは、企業・会社といった枠組み(家族手当なんてその査証でしょう。 Aさんって、仕事は人並みだけれども、子供をたくさん抱えて大変だから家族手当で援助しましょう。とか、終身雇用とか・・・)。

 ・また企業が進出しなかった地域では、再び地域の枠組みを強化する。(たとえば、自治体・青年団等の主導した成人式なんてその象徴的動きでしょうし)

 等々・・・・。


 しかし70年代以降(20世紀最後の四半世紀は)、それらの枠組みも(種々の事情に拠り)力を失って行く。
 先ずは進歩主義が、そして能力主義・派遣労働法なんて物と共に、企業あり方も変わる・・・。
   

 そこで人々(庶民)はどうしたか?

 ・ひとつは、共通の趣味といった関係性を中心とした枠組み(おたく文化とかそうですよね)。(しかし、これってあまり生活の基盤とはなりえないですが。)

 ・またまた新しい宗教。(話題となった、OS教とかKKとか)

 
 唯どちらにしろ、社会が最小単位である”個人”という枠組みが無関係に集合し成立している物、或いはそうした状況と成ったという現実を、人々は意識的、無意識的に感じざるを得ない状況が生まれたのでは無いかと思えます。


 しかし人類も他の哺乳類の多くと同様に群れを作る動物。
 一人の独立した”個”であるという事は、それなりの孤独感と付き合わなければいけない訳で・・・。


 そこで先に書いた、趣味のサークル(おたく)的なものとか、或いはメル友、SNS友、ツイッター、フェイスブックの友達(知り合い)等がはやる状況も生まれて来たり・・・。

 しかしそれらの枠組み、根拠脆弱ですよね・・・。


 ここで仲間としての根拠、同じ枠組みの構成員であるという根拠として一部で強く浮かび上がってきたのが、中学の同級生という同一体験に思えます。
 特に”中学の頃は一緒に悪さをしたよね”という体験。(またそれは、不良故に他者からオミットされる事により仲間意識を拠り強化する)

 また優等生等は、高校~大学~就職と言う過程で都会に出、そこで新たな枠組み(高校の同窓、大学の同窓等)を得る。

 さらにいえば都会という個人主義的人々の集まった出来上がった空間の作法に疲れた人々も、また中学の同窓という部分に依存を高める・・・。


 結局、アニマの死んだ後に地域の枠組みを保障するのが中学の体験、或いは地縁というものだったのかも知れません。
 新興住宅地や集合住宅に昔からの共通のアニマは見出せないですしね。
 また、ソーランなんていう物が昔の祭りの役割を担わされる。

 そうして地元にのこった、或いは戻った(元)不良(ヤンキー)を取り込んだのが、地方に根付いた色々の組織であり。この組織が、自民党の組織票を構成している。そしてこの組織票が力を発揮したのが前回の選挙。



 長くなりましたが、そのコラムが書いた現代日本の状況とはこうした意味なのでしょう。


 最近よく言われます地域おこし、地方分権を希望する意識、政治状況ってこの辺りから来てるのでしょう。


 でもまあ、それはそれで、そんなものかも知れません。

 ”政治”(或いは首長)の役割って、結局、帰属している組織により多くの富をもたらす事でしょうし(外交的政治)。その得た富を、内部でいかに構成員が納得するように分配するか(内政)でしょから・・・。


 唯、あまりに地方の枠が強固に成り過ぎますと、”国”という枠組みや”社会”という枠組み、”個”という枠組みも消えてしまうのも確かかも知れません。




  
 ではこうした事が何をもたらしたのか?どういった事に成るのか?・・・・。



 先ず、こうした組織がわが国では何故強固なのか?

 考えられるのは、よく言われる”親分(先輩)が白と言えばカラスも白い”といった言い回しに代表される、ある種儒教的感覚、思考。
 もともと儒教という物、閉じた枠組み(地域、血族、等)の内部で無益な争いを減じ、枠組み(組織)の維持。発展、勢力拡大を目指す処世術、或いは思想といったものでしょうから、それはそれで理にかなっているのでしょうが・・・。

 唯、その枠の外に出た場合、カラスはやはり黒い訳で・・・。
 余りに内向きな志向はやはりどこか弊害もありそうです。


 知らない街に行くと疲れるとか、或いはオフィシャルのマナーとかルール、お約束への適応不能というか・・・。
 まただからこそ(それらに適応する事に疲れるから)、内向きにグループを作るのでしょうが。

 またあまりにも内向き(組織)の利益重視は結局、社会のルールとか法律等を無視する事、公の利益を損なう方向に向かう可能性も高い様にも思えます。
 (少し前から報道される元暴走族グループとか)(或いは地域の組織の利益≒補助金が、財政赤字を悪化させた一因にも思えますし)


 結局、血で血を洗う様な戦国時代とか中国の三国時代、或いは”春秋に義戦無し”の時代とか、そういった方向に向かうのかも知れません。



 えらそうな事ばかり書きましたが、じゃあ手前はどうなの?言われますと・・・。難しいですね・・・。

 唯、現在私はバーテンダーで、また「バーのカウンターは肩書き(組織とか)を離れ、一人の人間(個人)として座るのが似合う場所です」等と常々言っている手間、私自身も必要以上に、いちバーテンダーといったもの以外の帰属意識は減ずべきであろうとは思っています訳で・・・。


 まあ、はっきり言えば、引き籠り気味の個人主義で、身勝手な人間なのかも知れません。
 (だからこそ、バーテンダーをしているとも言いえますが・・・)

 唯その分、孤独感にも少しは慣れたのかも知れません。


 どちらにしろ現代文明がもたらした物は、無関係な個人の集合体という世界であり、唯一残ったスケールは価格といった世界だとも思えます。
 (またその唯一のスケールである価格(貨幣)(資本主義)を疑わない故の実利主義であり、反知性主義かもしれませんが。)



 蛇足ついでに記せば先の大戦は、「国とか地域の枠組み、伝統、文化、宗教、歴史、慣習etc、を守ろうとする勢力(それはフランス革命当時の議会で”右”と言われた勢力)と、それらを壊そうとする勢力(自由貿易主義、同”左”)の戦いであり、その結果後者が勝利した戦いであった」という見方も出来そうです。
 (実は直接的植民地支配から間接的それへの移行というのが正体でしょうが・・・)


 そうして、その延長線上に今日が在るだけなのでしょう。


 さてはて、如何なる事に成りますやら?


 くどくなりました。


 

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