FC2ブログ
2008/10
25
[ #516 ]

思いつきで書いている戯言(ざれごと)です。ご容赦を。

 2012年

  1月   2011年に読んだ本から
  2月   忠臣蔵に想う
  3月   震災から1年
  4月   今回の芥川賞を読んで
  5月   社交ダンスから考える社交
  6月   世界禁煙デーに考える
  7月   店で流している音楽の事   
  8月   オリンピック真っ盛りですが
  9月   ネットに想う
 10月   絶滅危惧種
 11月   世の中が荒んで来た様な
 12月   2012年に読んだ本から


 2013年

  1月   初夢
  2月   某新聞のコラムを読んで
  3月   私の体重
  4月   私が遊郭に惹かれる訳
  5月     その2
  6月     その3
  7月     その4  
  8月   夏といえば怪談?
  9月   累ヶ淵怪談の事
 10月   死霊解脱物語聞書の事
 11月   祐天の事
 12月   ブログを始めて5年


 2014年

  1月  2013年に読んだ本から
  2月  敦盛
  3月  震災から3年
  4月  文化(?)
  5月  文明と文化
  6月  最近読んだ本から
  7月  ニュースを観て思った事
  8月  わくぐみ
  9月  その2
 10月  その3
 11月  落語の世界?
 12月  ことば


 2015年

  1月  
  2月  2014年後半に読んだ本から
  3月  安心安全
  4月  まけざま
  5月  新書
  6月  観光という物
  7月  2015年前半に読んだ本から
  8月  暦の上では・・・・
  9月  好きになれない・・・・
 10月  その2  飴と鞭
 11月  お札
 12月  テロという言葉
 

 2016年

  1月  2015年後半に読んだ本から
  2月  春画考
  3月  震災から5年
  4月  こだわり
  5月  コダワリとかビョーキとか
  6月  選挙
  7月  2016年前半に読んだ本から
  8月  山の日
  9月  プラザ閉店
 10月  好き嫌い
 11月  他者
 12月  身内



             以上



  追加


 ・ 一寸気になる・・・・
 ・ ゴールデン街
 ・ 暦のこと
 ・ AUTOMATIC
 ・ ヒップ ホップ
 ・ 禁酒法?
 ・ 何だか・・・・
 ・ 
 ・ 季節
 ・ 盂蘭盆会
 ・ ストイック?
 ・ 似ている?
 ・ 大相撲
 ・ お笑い
 ・ おしゃれ?  
 ・ しゃれ
 ・ いき
 ・ すい
 ・ わかってはる
 ・ 一見さん
 ・ 異常気象?
 ・ 戦争
 ・ 流行語
 ・ パワハラ?
 ・ 別れの季節
 ・ 元号
 ・ TV
 
 
スポンサーサイト

Copyright © ますた [バーテンダーと呼ばれる程のバカは無し] All rights reserved.

2012/01
20
[ #358 ]

戯言 2012年1月 (昨年読んだ本から)

 昨年もボチボチと本を読んでいた気がします。
 読書ノートをつけている訳でも無いですし、気の向くまま読み飛ばしていた訳で何冊程読んだかは定かでは無いのですが、その中から印象に残っている本を何冊か・・・。



 先ず1つ、「少年殺人者考」。

 著者は井口時男という方。図書館本です。


 内容は書名通り、戦後の未成年殺人者の内面、及び背景を著者が考察する。といった物です。
 神戸の酒鬼薔薇事件の後辺りからこういった内容の本、新書・小説等を含め多量に出版された印象も有り、何を今更といった気もしたのですが読んでみるとこれが面白く、印象に残っています(古本屋で探すかな?)。

 他のこの手の本との違いと言いますと、著者が文芸評論家である事が特徴的かも知れません。
 その所為か多くの未成年殺人者(未遂も含め)の内面及び事件の時代観・背景といった物を、彼らの残した文章、手記やネットへの書き込み等から考察するといった形式と成っており、この手法が私好みで理解しやすく印象に残っています・・・。

 取り上げる殺人者(事件)も敗戦後間もない時期の李珍宇から、永山則夫、宮崎勤、女子高生コンクリート詰め殺人、豊川主婦殺害事件、酒鬼薔薇、佐賀バスジャック、2008年の秋葉原、佐世保小6事件等々多岐に亘り、また登場する文藝作品、作家等も多い本です。




 他、印象に残っている本をもう一つ揚げると・・・。

 女性ライターが、現代に残る色街について書いたルポルタージュ。
 対象が対象(色町)なので衝動買いですね・・・。

 しかし読んでみますと少々残念な印象・・・(拠って、書名、著者名は記しません)。


 では何が残念な印象として残ったのか?


 その色街の歴史、背景等を良く調べてあり労作の感は有ります・・・。
 ただ私がどうしても気になったのは、その色街で生きている人たちに対する著者の無邪気な軽蔑感といった物が行間から感じられてしまう事です。
 私自身古い色街の跡等を歩く事が好きなのですが、その場合出来るだけ目立たない、立ち入らない、干渉しない、敬意を持つ・・・等々心に留めている心算です。
 スタンスが違い過ぎたのかも知れません・・・・。


 しかし乍これも仕方ない事なのかも知れないと思ったり。

 現代(戦後)というもの、前現代(近代)(戦前)というものを否定し軽蔑する事に拠り成り立って来たのでしょうから。また近代(明治)は江戸(近世)否定する事に拠り・・・・。

 それは判っている心算ですが、それでもやはり現代の(あるいはこの本の行間に見え隠れする)前現代(遊郭、色街等は戦前、或はそれ以前の価値観で成立している象徴的な空間に想われます)に対する無邪気な軽蔑感(差別感、上から目線、攻撃性・・・等々)には、やはり戦慄を禁じ得ないのです。

 結局、こんな事をブログに書いている私と言う人間が現代に適応出来ない古いタイプであるという事なのでしょうが。

 あるお客様の言い回しをお借りすれば・・・。
 「危惧されない、絶滅危惧種」なのでしょう・・・。
 またそれ故に「危惧されない、絶滅危惧種」である遊郭跡の街並みや遊郭建築に惹かれるのかも知れません。

 そうした事を考えさせられた、ということで印象に残った本でした。


 

Copyright © ますた [バーテンダーと呼ばれる程のバカは無し] All rights reserved.

2012/02
17
[ #365 ]

戯言 2月 (忠臣蔵)

 以前”忠臣蔵について想う事を書くかも知れません”とアップした記憶があります。
 年末年始の所為か忠臣蔵の話題をテレビ等で良く耳にするような気がします故、今回はその辺りの事を・・。

 とは言っても私自身、歴史等詳しくは無いので単なる言いたい放題ですが・・・。
 歴史としての赤穂事件、或いは歌舞伎の忠臣蔵や講談の赤穂義士伝等、多くの方が分析をされていまので私の様な素人は楽しませていただくだけでよいのでしょうし。
 ただ想うのは、江戸中期以降この手の仇討ち物が庶民に非常に人気であったと想われる事です。

 現実にどれ程の仇討ちが実施されたは定かでは無いですが、読み物、劇としては非常に人気であったと想われます。

 初夢の”一富士二鷹三茄子”というのも曽我物語、忠臣蔵、鍵屋の辻から来ていると言われてますしね。
 初夢でそれらを見る事を良しとする訳ですから”仇討ちこそ人間の本懐、最も天晴れ”という感情や想いが江戸庶民には有ったのでしょう。

 尤も江戸庶民だけでなく忠臣蔵(仇討ち物)。戦後の一時期に占領軍に上演を禁止されていた時を除き最近まで人気ですし、TV時代劇の”必殺シリーズ”何て物も仇討ち物と言えそうですしね。
 結局、江戸中期から20世紀まで日本人、仇討ちを肯定する(或いは評価する)メンタリティーを持っていたのでしょう。

 勿論、御成敗式目にすら既に仇討ちを禁じる令がある事を考えると、日本人の共通無意識に有るといっても良いのかも知れませんし、世界中にありそうです・・・。


 閑話休題、では仇(アダ)とは何だ?仇討ちとは何だ?となりますと・・・。辞書では”仇=かたき、恨み”と書いてありますが何となくしっくり来ないです。


 そこで私としては・・・・。

 ”恩をもって仇に報いる”とか”恩を仇で返す”といった言葉が有る様に、「恩」の反対の意味では無いかと思えます。
 「恩」というと慈しみとか、優しさとか、善意に近い様に思えますので、「仇」というと「悪意」が近いのかと想ったり。
 そこで仇討ちとは、何者かの悪意に拠り死に至った(非業の死をとげた)人間のうらみ、おもい等を死者になり替わって晴らす行為と定義付けできそうです。


 そこで江戸中期、元禄バブルと言われたりもしますが、都市部においては庶民にまで商品経済、貨幣経済が浸透し、庶民が不条理(非業)と想う事象(貧富の差等)が増えたのが仇討ち物が受けた遠因の一つかとも想えたもりします。


 その後明治となり、確か明治6年2月に敵討ち禁止令が出される事となる。

 これの意味をどう考えるのか・・・。


 確かに敵討ちといえど人を殺めるわけですから”殺さず”の戒めを破る(罪を犯す)訳です。詰まりは”罪の連鎖が起きる”とも言えるかも知れません。
 そこで敵討ち禁止令は、”その連鎖を止める”という面が有る様に想えます。

 それは今風に言えば、被害者家族のうらみ、おもい等を為政者が成り代わって果たすという宣言でも有った面もある様に想えます。

 それをふまえた上で・・・・、確か昨年の死刑の執行数は”0”であったと記憶します。
 と成りますと、最近はこの”為政者が被害者家族に成り代わりおもいを果たす”という視点、義務は放棄されたのかも知れません(というか戦後民主主義、人道主義ではタブーなのかな?)。


 言いたい放題ついでにもう一つ。
 仇=悪意に近い?等と書きましたが、とすると仇討ち物は究極の勧善懲悪物とも言えそうです・・・。

 近々、代表的勧善懲悪物である水戸黄門も打ち切りとか・・・・。
 好んで観ていた訳では無いのですが何だか寂しいですね・・・。

 現代では水戸黄門における悪代官やそれと結託する井筒屋(?)こそが町(地域)を活性化している。何て意見も多いそうですし、水戸黄門も打ち切りは中央集権から地方分権への象徴だ・・・という意見もあった様な・・・。


 それでも私は勧善懲悪物のドラマは大切な気がします。
 場当たり的に刑法を改正するよりよほど効果的なのではと・・・。

 この判り易い、皆が納得しやすい(そして、適度にゆるい)善悪観というものはやはり大事な気がするのですがね・・・。
 
 忠臣蔵の話が変な方向に行きました(笑)。


 

Copyright © ますた [バーテンダーと呼ばれる程のバカは無し] All rights reserved.

2012/03
10
[ #369 ]

戯言 3月  (震災から一年)

 明日で東日本の震災から1年。津波・原発の爆発の映像が今でも思い出されます。非常に衝撃的でした。


 そこでこれらの出来事に接し私は、或は人々は変化したのでしょうか?


 確かに直接的に震災の被害を受けられた方々、原発問題で避難を余儀なくされた方々は望む望まないに限らず変わる事を余儀なくされた事でしょうしその苦労は察して余りある気がします。


 では私が住んでいます西日本等の人々は1年前の出来事を見て何か変わったのか?

 勿論変わられた方、変わられない方それぞれの様に想えますが、実は人々も社会も余り変わらなかったのでは・・・?と感じます。

 私自身も相も変わらずカウンターの内側に立っているばかりですし・・・・。


 結局人々、増して法人格、おいそれと変化出来ないのかも知れません。
 特に法人格はそのアイデンティイーあるいはレゾンデートル故に変われないでしょうし、個人は目の前に在る日々の生活故においそれとは変われないのかも知れません。

 また数十年の時間と個人的内面的経験の上に築かれた人格、性格といったものも、おいそれと変化出来ない様にも想われます。


 もしかすると結局人間、あるいは社会ってそんな物なのかも知れません・・・。

 震災から1年、そんな事を想います。

 戯言です、聞き流していただければ・・・・。

 

Copyright © ますた [バーテンダーと呼ばれる程のバカは無し] All rights reserved.

2012/04
04
[ #376 ]

戯言 4月 (芥川賞)

 今回の芥川賞(146回、平成23年下半期)2作品、読んでみました。
 2月程前の事です・・・。


 田中慎弥氏のあの受賞会見が気に成ったという事で・・・。(笑)

 掲載の文藝春秋を購入し読んでみますと、個人的にはもう一つの受賞作、円城 塔氏の「道化師の蝶」に興味を惹かれました。


 その理由。

 この作品、もしかすると「読み流せる」作品である事に意味があるのかと思えます。それこそ個人的には”飛行機の中で読んでみたい”作品ですね。(笑)



 それはさておき、実は私、飛行機の中で小説等が読めない性質でして・・・。
 気圧の低さで集中力が落ちる故か、はたまた絶対的移動速度に負けてしまう所為か・・・。
 小説が読めない・・・かといって寝る事も苦手で寝付けない・・・。
 
 別に乗り物が苦手という訳では無いのですが・・・。
 在来線では良く小説を読んでいますし、またうたた寝も良くしています(しばしば乗り越したり・・・)。
 (新幹線は少し苦手、あまり読めません、やはり絶対速度の問題か?)(まあ、気圧の関係でしょうが・・・)

 そんな私ですが、では飛行機に乗っている時はどうしているのかといえば・・・。
 機内誌を読み飛ばしているか、数字パズルの様な物を解いているか、ヘッドホンで何か聞き流しているかですね。
 集中力が必要とされる事が出来ないので、パズルを解いたりしてる事が多いです。

  
 何だか話が横道にそれましたが、そこでこの「道化師の蝶」という作品、そうした状況で”気持ちよく読み流せそうな作品”という印象なのです。

 例えるなら、イージーリスニングと言われるジャンルの音楽であるとか、重過ぎないインストゥルメンタルジャズの作品の様な印象なのです(ちょっとキース・ジャレットのケルンコンサートを思い出しました)。

 気持ちよく美しい文節を読み流す(美しい音節を聞き流す)感じ・・・。

 しかし音楽を聞き流すという行為は良く有りますが、文章を読み流すという行為は可能なのか?
 全く一緒とは言いませんが、私自身はアリだと想います。


 そうなるとここでもう一つの問題、”読み流せる(説の無い)小説”に果たして価値は有るのか?小説なのか?

 選考者の評も、この辺りで別れていた様に想えます・・・。


 ”小説とは呼べないかも知れませんが、文学作品としては成立するのでは?”というのが私の感想。

 元来”文学”と言う言葉。明治時代に”literature”という英単語を和訳して成立したのでしょうが、その折”music”を”音楽”と和訳したように”文楽”と和訳しようとしたのだが、既に文楽という単語が存在した故”文学”としたという話を聞いた事が有ります。

 確かに音楽、文学、絵画、建築デザイン、陶芸 etc は同質の空気を内包している様に想えます。

 音楽もメッセージ性が強く有る音楽だけが音楽の枠内に捉えられる訳ではないでしょうから・・・。故にメッセージ性(説)の弱い文学も有りでは?想う訳です。
 

 そんなこんなで私としてはこの「道化師の蝶」という作品、小説では無いかも知れませんが(小説かもしれませんし)、ピアノジャズの様な、イージーリスニングの様な、或は城達也のジェットストリ-ムを連想させる様な(文学)作品、といった印象を受けましたしその印象自体が面白(興味深)かったですね。
 (勿論、読み流せる、読み飛ばせるとは言っても、最近の携帯小説等とは一線を画す物と想えます)


 実際に飛行機の中か、客船の上で再読してみたいですね。(笑)

 ますた

 
 追記

 もしかすると、私が理系よりの人間故に引かれたのかも知れません。(理系的空気を感じる作品でもありました)
 
   

Copyright © ますた [バーテンダーと呼ばれる程のバカは無し] All rights reserved.

2012/05
09
[ #386 ]

戯言 5月 (社交)

 時折アップしますのでご存知の方は有られると想いますが、数年前から細々と社交ダンスを習っております。
 ”何故社交ダンスを?”と聞かれる事も多いです・・・・。

 確かに、何故?社交ダンスを習う事にしたのか?
 理由は色々と有りますが、大きな理由の一つとしては「社交」という事柄について考える切っ掛けとしたい、或は体感してみたいといった事です。

 酒という社交ツールを扱わさせていただいておりますし、バーという社交空間を遣らせていただいております故・・・。
 にも拘らず、かなり社交性に欠けている性格ですし・・・。
 

 ではダンスを習って「社交」という事が幾らかでも理解出来たのか?


 理解出来たかどうかは判りませんが、私なりに感じた事は幾つか有ります。

 その一つは、社交の場、空間においては「お約束」と言うものが厳然と存在するという事。
 (マナーとか、ルール、或は決まり事、作法、基本、基礎、律・・・等と呼んでも良いかも知れません)


 例えば以前より細々と続けておりますエアロビクスダンス等ですと、周りの方々を危険にさせなければかなり自分なりに動いて問題無い気がします。基本的に個人的な活動ですので自分が動きたいように動いて問題ないのですが、社交ダンスではそれは全く通用しないという事。

 ”私はこんな風に踊りたいのだ!” なんて、全く通用しない。
 何せ相手がありますから。
 ワルツにはワルツのお約束が、タンゴにはタンゴのお約束が、ルンバにはルンバの、チャチャチャにはチャチャチャのお約束が有るという事。

 特定のパートナーとのみ踊るのであればそれも少しは通用するのかも知れませんが、パーティー等で不特定多数の方と踊る場合は全く通用しないという事。これを実感させられました。

 と言いますか社交の場、社会的交流の空間においてそれがスムーズに行われる為に「お約束」が造られた、と言っても良いかも知れません。

 僕が僕が、私は私は、といった主観的、一人称的な考え方は通じない。


 何と不自由な!と言われるかも知れませんが・・・。でも実際世の中、そんな物の様な気もします。

 高速道路を走るときは高速道路のお約束が、一般道には一般道のお約束が(道交法以前の問題として)、公共の場には公共の場のお約束が有る様に・・・(成文法以前に)(不文律として)。
 (或はジャズにはジャズのお約束が有る様に、と言っても良いかも知れませんが・・・)


 それに、やってみればそれ程不自由でもないのです。
 お約束(基本)さえ外さなければ、後はどんなフィガーを組み合わせるかは、個人個人の勝手ですから・・・。

  

 それともう一つ感じた事・・・。

 私は男性なのでリーダーとなるのですが。リーダーはパートナー(女性)をリードする義務が有るという事。
 主導権を取る責任が有るという事。

 そして、その難しさが有るという事。

 主導権を取る事の難しさ、義務感、覚悟、怖さ等々・・・、またそれ故に付いてくる快感。
 勿論女性には「相手に主導権を与える、取ってもらう」事の怖さ、難しさ、覚悟・・・・、そしてそれ故の快感が有る様に想えます。


 もしかすると社交ってそんな物なのかも知れない・・等と現時点では感じております。
 お約束の存在と、主導権を取る覚悟、与える覚悟・・・・。そんな物。


 またこれは別にダンスの話だけでは無い気がします。

 遊びの空間・・・・。例えば・・・。 
 バーにはバーのお約束、居酒屋には居酒屋の、寿司屋には寿司屋の、スナックにはスナックのお約束が有りそうですし、主導権の存在も有りそうです・・・。

 それに、そうした空間に限らず人間が2人以上集まれば、常にそうした事は内包されていそうです・・・。

 そんな事を想います。


 唯、最近ではこのお約束ってヤツ。少し壊れてきている気もします。法律(成文法)に書いてない事は、何しても良いんだ・・・。といった雰囲気・・・。

 私が出来ているとは言いませんが(なにせ、社交性欠如気味です)、このお約束ってヤツ、これが文化とか知恵ってヤツの正体かも知れませんね。 

 
 

Copyright © ますた [バーテンダーと呼ばれる程のバカは無し] All rights reserved.

2012/06
02
[ #393 ]

戯言6月 (禁煙デー)

 一昨日の5月31日は”世界禁煙デー”。
 今年の禁煙デーは例年に比べて少し静かだった様に想うのですが・・・。

 それもさもありなん、かな?


 閑話休題、確か世界禁煙デーが設定されたのは1988年であったと記憶していますが、そのときに憶えた違和感と言う物、未だに私の中では払拭されてはおりません。

 何と言いますか、煙草さえ無ければ世界が平和になるとも取れる論調、煙草こそが諸悪の根源といった感もある主張。何となくですがブッシュ大統領が幾つかの国々を”悪の枢軸”と名指しした遣り方を連想してしまいます。

 また煙草か健康か?といった二元論、二項対立論にも少々恐怖を覚えます。


 元来煙草はニコティア・タバカムに代表される茄子科の植物であり、それらは人類より遥か昔から地球上に存在している訳で、それを人類のご都合主義で”悪”と決め付けるのって如何な物か?といった印象が拭え無いのです。

 それに健康(身体)に悪そうな物って他にも沢山ありそうです。
 例えば自動車や工場等の排ガス、各種食品添加物、化学合成された各種薬品(化学的に造り出された薬って、当然使い方に拠れば、毒にも成る訳でして・・・)。
 されに穿った見方をすれば電磁波とか、巷に溢れかえる各種の情報、TV番組。ネット等の情報ツールだって、使い方に拠ればそうとう健康に悪そうですし・・・・。(笑)


 それに今はやはり放射性物質ですか。

 今年我が国で禁煙デーがあまり騒がれなかったのは、やはり原発事故の影響が大きいのかも知れません。
 煙草何て言ってる暇は無いですよね?

 特にこの放射性物質(原発)はそれが生み出す電気、その圧倒的利便性と表裏一体であり、その事実を現前に突きつけられた訳ですからそれは悩みますよね(悩むべきでしょう)。
 実は原発に限らず、現代科学に拠り利便性を求めて造り出された物、押しなべてそうした事を内包しているのですが・・・。



 そこで80年代頃から起こされた禁煙ムーブメント。結局は煙草、或は喫煙者を負の(悪の)偶像に仕立て上げる行為であり人々を思考停止させる行為でははないのかと想えて成りません。
 判り易い悪の象徴(スケープ・ゴート)の存在は、便利でしょうから・・・。
 

 嫌煙権という言葉も・・・。
 煙草(の煙)を嫌う権利・・・・・。言い換えれば、人に煙草を吸わせない権利 ???
 どちらにしろ嫌煙権なんて言葉、憎悪を生み出しやすい言葉の様に想えて成りません。


 ここで思い出すのが、昔読んだジョージ・オーエルという作家の「1984年」という小説。
 この中に憎悪週間とか憎悪の時間といったものが描かれていた気がします。嫌煙権という言葉、これを思い出すのです。

 またこの小説のなかで主人公(もしかするとその彼女だったか?)が、「幸福で満たされていれば、憎悪週間なんて必要無い・・・」といった意味の台詞を使っていた覚えがあり、印象に残っています。


 結局、嫌煙権なんて言葉(禁煙という正義)を使い他者を攻撃、或は憎悪しなければならなくなった現代人というもの、常に満たされない(欲求不満の)状態に置かれているのかも知れません。

 正に1984年頃から世界は小説”1984年”的世界に向かい踏み出したのかも知れません。
 (1984、本棚から探し出して再読するかな?)


 話が煙草からかなり外れてしまいましたが、旧来喫煙は大人の嗜(たしな)みといったイメージでした。

 嗜みという言葉通り社交ツールであった訳ですが、個人的には煙草って、最も嗜好品らしい嗜好品、社交ツールらしい社交ツールという気がします。


 何故か・・・?
 それは、他の嗜好品に比べ最も身の養いに成らないからでしょう。酒だって結構身の養い(栄養)に成ります。

 身の養いになる物とは結局、個人(個体)の生命維持にプラスになる物。動物的個体維持の本能に合致する物ですよね。
 身の養いになる物は、社交の場における”三欲を満たす姿を相手に見せてはいけない(悟られてはいけない)という基本”に合致しない面を内包する。

 それに比すと煙草の回し喫みであるとか、一つの酒器に拠る酒の回しのみ、病気のリスクとか汚いなんていう意識が有ると出来ない事です(そういった面では、性行為こそ究極の社交かも知れません)。このリスクを供用する事こそが実は社交の本質なのでしょう。
 言い換えれば”わが身大切”(自分さえ良ければ良い)という人間で無い事を証明する行為が社交と言っても良いのかも知れません。


 80年代位から、その辺りが変わって来た気がします。

 一寸面倒くさい言い方をすれば、生老病死という四苦。これらを逃れられない物ととして受け入れていた事が、それから逃れようとする欲を肯定して良い時代になったようにも想えます。

 (自分だけは)楽して儲けたい(生の苦は、食わなきゃいけない苦でしょうから)(各種投資システム)、歳を取りたくない(アンチエイジング)、病気になりたくない(健康食品)、死にたくない(延命治療、がん治療)。
 そういう事を口に出して良い時代風潮に・・・。
 また金さえあれば、四苦から逃れうる幻想を持ちうる時代。


 しかしそれって、結局は欲求不満(満たされない感)を増幅している気もしますし、無益な争いとか憎悪を増やしている気もします。
 
 何だかね・・・。



 勿論要因は色々と有りそうですが、ただ他者を正義の名の基に攻撃したり憎悪したりする時代って疲れますね。
 
 どちらにしろ個人的には、のんびりと一服するような生き方が出来ればと想います。

  
 

Copyright © ますた [バーテンダーと呼ばれる程のバカは無し] All rights reserved.

2012/07
07
[ #402 ]

戯言 7月 (店で流す曲)

 音楽に詳しい訳では無いのですが(楽器なんて弾けませんし、カラオケも苦手といいますか憎悪してる?)、にも拘らず店では何かしらの曲を流しています。
 
 
 十数年前に店をオープンした当初から、どんな音楽を流すべきか?あるいはバーという空間にはどんな音楽が相応しいのかということは悩みの対象。
 勿論、音楽を流さないという選択も含め・・・。音楽に詳しく無いのであれば流さなくても良いのでは(流すべきでは無い)、という考え方も首肯できますし。

 唯現実問題として”バカナリヤ”、古い木造建築の二階に在りまして防音等が非常に良くないのです。店の前の路地の話し声(場合に拠っては哄笑や喧嘩の怒声も)等が良く聞こえます。
 更に数年前からは階下がカラオケスナックになりまして、その音もかなり響きます。
 サイレントバーは成立しない環境です。

 では防音のしっかりしたハコならば音楽を流さないという選択も有ったのか?
 何とも言えませんがやはり流していた様に思えます。音楽を流さない事で生まれる緊張感、流す事に拠る各種のメリット等色々考えたとは思いますが・・・。


 閑話休題、現実にはバカナリヤではCDにて音楽を流しています。

 恐らく・・・。
 ・JAZZ&JAZZボーカルが、7~8割。他は色々。
 ・基本的には日本語の歌詞の物は流さない(とは言っても、たまに都々逸が流れたり)
 ・ボーカルは女性ボーカルが多い
 といった感じになっています。

 
 JAZZが多いというのは、やはりバーのカウンターの空気、或はカウンターでなされる会話。JAZZに近い気がするからです。

 JAZZの定義をどうするか?となると限がなくなりそうですが、その即興性は一つ特徴ではないかと思えます。
 少し砕けた言い方をすれば、楽器の音色という言葉を使って会話(掛け合い)を交わしてる様に想えるのです。
 それはバーのカウンターでの会話の空気に近く思えるのです。
 JAZZ(バー)らしさと言う枠は守りつつも各々が割りと自由に、どういった曲(話題)をどういったアレンジ(方向性)、音色(言葉)、アドリブで・・・・演奏する(語る)のか。
 そうして一つの曲、或は夜が出来ていく。また其れがその時だけの消えものっていう事も・・・。

 似ていると感じます、故にJAZZ。



 日本語の歌詞のものは流さない理由はやはり耳に引っかかりすぎる故。
 理解出来、かつ聞きたくない他人の声って、騒音なんですよね。


 女性ボーカルが多いのは、女性の声が楽器としての音色として素晴らしく心地よく思えるから・・・・。

 等々・・・。


 こんな感じでCDを選択しています。


 ただ実際こうして理屈っぽく書いても仕方ない気もします。
 どんなCDを流しているかそのうち少しづつアップするかも知れません。


 

Copyright © ますた [バーテンダーと呼ばれる程のバカは無し] All rights reserved.

2012/08
05
[ #411 ]

戯言 8月 (オリンピック)

 オリンピック、佳境の様ですね。ニュースもオリンピックの事ばかりと思えます。
 しかしオリンピックの雰囲気も年々変わって来た様な・・・?

 良く言われていた「オリンピックは勝つ事では無く参加する事に意義がある」といった論説も語られなくなった様に思えます。



 しかしそもそも(近代)オリンピックとは何なのか?

 クーベルタン男爵が提唱し1886年アテネで第一回が開催された国際的スポーツの祭典。と言うのが一般的答えでしょう。

 では何故その時期に男爵が提唱し各国に認められ開催される事になったのか?
 

 男爵の提唱したオリンピックの精神「オリンピズム」には、「スポーツを通して心身を向上させ、国籍等の様様な差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神を持って理解しあう事で、平和でより良い世界の実現に貢献する」 とあります。


 詰まりは”オリンピックを開催する事に拠り、世界平和に貢献出来る”と、男爵等開催に努力された方々は思っていたという事なのでしょう。
 逆に言えばこの時期の世界の平和が壊れそうな時期であったという事かも知れません。
 たしかに19世紀後半は帝国主義隆盛の時代とも言われます。アヘン戦争、露土戦争、普仏戦争、日清戦争・・・・・。


 では何故、帝国主義の隆盛が起こったのか?

 理由は色々と考えられそうですが、先ずはフランス革命等に拠る神聖ローマ帝国の実質的解体(カトリックの威信低下)、詰まりはヨーロッパという枠組みが壊れ(かけ)たという事。
 同時に生まれた近代国家(民族国家、或は帝国)。
 また産業革命に依る生産の拡大~デフレ~市場(植民地)獲得競争。


 では何故男爵たちは、スポーツを行う事が平和に繋がると考えたのか?

 マッチ・ウェンロック・オリンピックがヒントになったという説がありますが(これにはイギリスの産業革命がもたらした残酷な社会に対抗する為の自助論辺りの影響も有りそうですが・・・)、私としては其れよりも、以前から英国にあったスポーツと言うもの力(或は社交性)に期待した面が大きいのでは無いかと想像するのです・・・。
 

 100年戦争終結に拠り、英国では相対的に王室の力が弱まり、地方貴族(領主)の力が強まった・・・。
 そうなると、隣あう地域どうしやその領主って、どうしても争い易いし疑心暗鬼にも成り易い(家や国でもそうでしょう)。
 そうした状況の中、戦や争いに至る事を回避する手段として領主同士の社交としてのスポーツが英国で発達したのではないか?と想像するわけです・・・・。


 では何故、スポーツという社交に拠り戦争(争い)が回避され易いのか?

 争いの要因の一つとして大きいのは、互いの疑心暗鬼や信頼感の欠如だと思うのですが。
 では、相手に信用して貰う手段として何があるのか・・・?
 言葉を弄すること自体では余り効果は無い気がします。
 我が国だと、究極は切腹。命がけで身の潔癖を証明するという作法に行き着くのでしょうが・・・。


 そこでスポーツ。特に危険なスポーツ。

 例えば、ボクシング。

 殴り合いという、場合によっては生命の危険さえ伴う究極の状況。そんな状況でさえちゃんとルールが守れるか?
 殴り合いの”恐怖”の中でさえ、ナックルで相手の上半身の前側面のみ殴打する事意外は行わないという意思の強さの証明。
 敗れそうになってもルール違反をしないという事で、自身が卑怯者で無いことを証明する行為。

 ラグビーなんてのもそうした要素が強かった様に思えますし、命がけの危険なスポーツ程、己が信用に値する人間だと証明され易いと人々は感じたのでは無いかと思えます。

 またゴルフの様に自己申告の競技、詰まりはズルをしようと思えば幾らでもズル出来る状況に於いてさえ、ズルをしない。これも似たような効果が有る様にも思えます。
 (古代以前、人類が採集主体の生活をしていた当時から続く遊戯的戦との類似、なんて話を広げても良いのですが・・・・)

 話が長くなりましたが、兎に角男爵等はこのスポーツの持つ力、社交性に期待したのでは無いかと思えるのです。


 ではそうした面で近代オリンピック開催は成功したのか?


 少なくとも戦争の回避という面では失敗でしょう。まもなく第一次世界大戦が起きる訳ですから。

 更にその後はヒトラーのベルリン大会や、戦後のステートアマの問題の様に国威発揚の手段にされたり、80年のモスクワ大会の様に露骨な国際政治の道具にされたり(そういえばミュンヘンでのテロなんてのも・・・)。
 そして84年のLA大会以降は露骨なショービジネスに・・・・。
 (現代では殆どのスポーツが、産業やビジネスとなっている様にも思えます・・・)


 何故、近代オリンピックは戦争回避、平和構築という面で失敗したのでしょう・・・。 
 やはり、昔の英国とは時代が違ったのでしょうかね?
 農本主義の世界なら、其れはそれでスポーツの社交性は力を持てた様に思えます。
 近現代の資本のドラスティックな残酷さに対抗する術にはなり得なかったという事なのでしょう・・・。


 そして今後もますます、ショー化、商業化を突き進むのかも知れません。

 ロンドンオリンピックのニュースに触れ、そんな事を思います。

 
 

Copyright © ますた [バーテンダーと呼ばれる程のバカは無し] All rights reserved.