”畏怖”なる言葉の意味は?と、広辞苑で引いてみますと・・・。
”恐れおののくこと。おじること。”となっているのですが、私のイメージでは少々物足りないですね。
畏怖の”畏”って、恐れるの他に”敬服する”という意味もあるの筈なので、”畏怖”は恐れつつも敬服する、怖さと同時に尊敬とか愛情とか信頼とかの感情も内包されいる気持ちではないかと想うのです。
でその畏怖の対象ですが、やはり”自然”であったのでは無いかと想うわけです・・・。我々が生きる上で重要な、まずは食べ物を与えてくれる自然。また、衣、住、も与えてくれる自然。と同時に時に死とか災害ももたらすもの・・・。
古代、山の民における”山”。海の民における”海”。森の民における”森”。生活の全てといってもいい物を与えてくれる大きな存在。
また、それは”あの世”のイメージも同時に在ったのでは無いかとも想います。死から生を再生産する場所としてのあの世・・・。
またその畏怖の念、農業の始まりと共にわずかずつ変化を始めたのでは?等と想うわけですが・・・。
農地を拓く為に森を切り開き、川の流れを変える・・・。
そしてその行為による自然の怒りを納めるために神社を建てる。祭りを執り行う。もちろん、畏怖の念があるからこその鎮魂の行為ですが・・・。
地鎮祭ってそういった事ですよね。
そして農業の定着と共に、実りに最も影響を与える太陽が対象ととして重要視されてくる。少しばかり太陽信仰的になる・・・(天照、ラー等)。
勿論、太陽なる自然に対する畏怖の念は強く在る訳ですが・・・。
さらに一神教の神が生まれ・・・。
誤解を恐れずに言えば、一神教の神とは、承認欲求を充たされなかった民族(あるいは個人)が、自己肯定の為に作り出した観念(あるいはシステム、幻想、物)だとも想える訳で・・・。自分たちで作り出した観念に対する感情は、畏怖の念とは少しばかり違うのでは?等とも想うわけです・・・。
おそらく我が国での畏怖の念、明治維新と共に入ってきた西洋文明、科学等により変わり始め、敗戦により決定的に変わってしまった気がします。
地鎮祭にしても、執り行ったから後は海を埋め立てようが、山を削ろうが、ダムを造ろうが、人間の勝手・・・。といった単なる手続きになっていった気がします。
確かに、F・フードのハンバーガーであるとか、コンビニの弁当とか、ファミリーレストランの定食から自然の存在を意識し、自然に対する畏怖の念を持つのは難しいと想います(しかし、そこで出る肉にしろ魚にしろ、元々は生き物だった訳ですが・・・)。
が、畏怖の念を持てなくなった人間の行動は、どこか醜く成って行く気がしてなりません。
出来れば私自身、少しでも自然に対し畏怖の念を保てる様、意識していきたいと想います。
くどくなりました。
ますた
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