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2013/06
04
[ #499 ]

長崎

 長崎に行って来ました。
 バカナリヤに馴染んで下さっているお客様に何か新しい提案が出来ないか?という事で初めて旅行を企画したのが(確か)2007年、今回で7回目、既に恒例行事の感があります。


 閑話休題、今回は長崎です。メインのテーマは何時ものごとく・・・、


 芸妓
 
 長崎見番の芸妓さん方にお座敷遊びを楽しませていただきましょう、という企画。

 過去に京都・土佐と実施したのですが、今回は長崎。以前こんな本をこのブログにアップした事もありましたし、気になって仕方なかったのです(私が・・・・笑)。


 そして長崎。

 東広島からは在来線~新幹線~特急と乗り継いで長崎に至る訳ですが、やはり遠いですね。約4時間、日本の西の端に位置する街で有る事を実感します。

 昼前にJR長崎駅に到着の後は一時解散自由行動に・・・・。 前回の京都以来こうした趣向にしています。
 大の大人がゾロゾロと連れ立って歩くのも見っとも無いですしね、それに基本的にBARのお馴染みさん、単独行動を愛する方が多いのです。



 そこで私は先ずは昼食、場所はこちら・・・。


 よっそう

 茶碗蒸の老舗、吉宗さま。

 見事(に私好み)な建物です。
 お昼時という事で少々込み合っていましたが、こちらで名物の茶碗蒸&蒸寿司をあてに一杯引っ掛け、長崎散策のスタートとしました。

 
 一旦ホテルにチェックイン、身軽になって向かったのは定番観光地グラバー園。
 此処にはこんな物が有りまして・・・。


 キリン2

 ”こま犬”なのですが・・・。


 日本で最初に作られたビール会社”Japan Bryuwery Company”。これは後に現麒麟麦酒となる会社ですが、この会社のビールのラベルに使われていた麒麟の絵のモデルがこのこま犬だそうです。またこのビール会社、トマス=グラバーと三菱が共同で設立した物。
 それ故(今はどうか知りませんが)英国に於いては麒麟麦酒の事を”MITSUBISI BEER”と呼んでいたとか。
 そして、当然現麒麟麦酒のラベル(エチケット)も麒麟の商標。
 バーテンダーですからこの辺りは押さえて置きたいのです。
 (グラバーと三菱の岩崎弥太郎の関係や明治維新の事等々、頭の中がはしりますね、こんな物も有りますし)


 ロッジ

   このグラバー園、立地等々見ますと、砦といいますか、城といいますか、要塞といいますか・・・そんな印象ですね。我が国の中世、港の入り口や岬の小山の上に砦や城がたくさん作られていましたが、立地等、それに近い印象を受けました。

 そこから長崎伝統芸能館(迫力でした)や、定番の大浦天主堂~山手通り辺りを散策。

 そしていよいよ今回のメインテーマ。卓袱料理を食べながら長崎見番のお姉様方に遊ばしていただくという夜に突入。


 場所はこちら。 


   富貴楼2
 

 老舗料亭「富貴楼」さま。


 見事な建物です。

 特にこうして下から見上げますと迫力に圧倒されます。創建(創業)は明暦だそうで、350年物の建物です。
 こうした建物が現役で使われている事自体に感激しますし、またそこを使わせていただける事に感謝です。

 仲居さんの案内で、先ずは待合の間に通されお茶とお絞りが供されます。ここで全員がそろうのを待たせてもらえる訳ですが、こうしたこと自体が嬉しいです。


 そうして全員が揃ったところで広間へと移動。

 内部   待合に使わせていただいた部屋を出た場所


 宴会に使わせていただいた部屋はこんな感じ。

  床の間

 外は・・・。
  手すり2  手すり   こんな手摺、嬉しいです。

 


 閑話休題、宴会ですが。

 卓袱料理の作法に則り、女将の挨拶~「おひれをどうぞ」の言葉~おひれ(お吸い物)を全員がいただき~乾杯~宴の開始~という流れになります。


 此処で3名の芸妓さんが登場。

 長崎の遊びの定番”春雨”、”ぶらぶら節”等を舞っていただいたり、お酌をしていただいたり、長崎らしいお座敷遊びを教えていただいたり・・・と楽しませていただきました。


 ぶらぶら

 地方さん二人の演奏で、ぶらぶら節を謡われ感激のN先生の図。


 更に宴会の締めは、芸妓さん3名の「送り三味線」で、送り出していただきます。

 送り三味線

 遊ばせていただきました。(感謝です)


 富貴楼を出ますとその場で解散、自由行動。

 私は当然バーフライ(バーホッパー)。
 こうして長崎の夜は更けて行きます。


 つづく・・・・。
 
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2013/06
05
[ #501 ]

長崎 (2)

 明けて2日目、私は朝から単独行動で長崎市内を散策(徘徊?)。(全く持って旅行主催者としての自覚が足りませんね)


 閑話休題、初めに向かったのは”唐人屋敷跡”と呼ばれる地域。路地や路地裏に惹かれる私としては一寸気になる場所なのです。

 この場所、歩いてみますと急傾斜地にへばり付く様に建物が乱立?その間を細い路地、坂道、階段等が立体迷路の様に入り組んで存在しています


 唐人街路地2  路地唐人街

 場所によっては人様の家のベランダや建物内を通過しているような気持ちになる場所もあります。
 1時間ほど堪能させていただき次の場所へ。


 ここ・・・・

   提灯
 
 旧丸山遊郭跡地です。(個人的には今回の旅行、此処がメイン?)

 
 江戸期より丸山の入り口(アプローチ)であった”思案橋”は、今はネオン街となっております。

 思案橋

 (この周辺は前日の夜にBARを求めて散々徘徊)

 この思案橋から少し歩きますと見返り柳の有ります”思い切り橋”の辻が有り、この辻を左に取り少し歩きますと旧丸山遊郭表門、二重門の有った場所になります。現在は往時を偲ばせる丸山交番が建っております。

 見返り柳  丸山交番


 この丸山交番から少し行った角を左に曲がりますと丸山本通り(旧丸山通)、この通り沿いに前夜遊ばせていただいた丸山芸妓さん達の歌舞練習場にも使われております”長崎見番(旧東見番)”の建物が在ります。

 見番

 この建物の前で前夜のお礼を心の中で呟き、旧丸山遊郭跡地の徘徊を開始。


 その印象は?といいますと。
 表通りの建物の多くが近代的コンクリート造の物に変わっており、雰囲気の有る建物は少ないですね。
 (前夜、あるバーのバーテンダー様が”20年程前までは雰囲気が残っていたけど今は無いよ”と教えてくださったのですが、確かにそうかも知れません)
 唯、町割りや路地は昔のまま、江戸期の古地図でも歩けそうです。
 また実際に歩いてみますと、かなりの傾斜地に存在している事が実感されます。坂道、階段が至る所に存在し立体的です。
 

 昔の風情の名残のかけらの様な物に想いをはせつつ兎に角徘徊してみました。

 
 その中で私好みの建物を幾つか・・・・。

 三島屋  建物・丸山1  建物丸山8  建物丸山3  建物丸山11
 
 他にも多くは無いですが散見出来ます。
 また、階段や坂道も楽しいです(歩くと辛いですが・・・)。

 
 階段1  階段丸山2  階段丸山3  坂・丸山  坂2

 

 また途中、小腹が空いたと”梅が枝餅”を購入したお店も雰囲気でした。

 梅が枝餅



 そうこうしているうちに時間も昼近くとなり昼食会場に向かう事に。


 それはこちら・・・。



   花月

 史跡料亭 花月 さま


 創業370年余という、丸山の老舗中の老舗。
 旧妓楼 引田屋付属のお茶屋。

 江戸期、江戸吉原、京都島原、大阪新町等では、お茶屋よりも揚屋の方が格上だった様ですが、ここ長崎丸山では逆にお茶屋の方が格上だった様です。

 どちらにしろ当時から現在まで、長崎の街の接客文化の中心で有った場所。

 メンバーが揃うまで800坪の庭、及び其処から見渡せます建物の外観を愛でさせていただきます。


 そうしていよいよ建物内に・・・。

 先ずは集古館(資料室)を見学させていただき、其処から食事会場の広間に案内していただきます。
 昼食は卓袱料理を基とした弁当形式ですが、にも拘らず女将の挨拶&おひれをどうぞの言葉。
 また部屋には、勝海舟直筆の書。手吹きの窓ガラスを通して眺める庭の景色も見事。

 更に、絶妙なタイミングで供されるデザート。
 それを頂いた後に、著名な(坂本竜馬の付けたといわれる刀傷の有る)床柱の有ります大広間~、広島に縁の頼山陽先生の滞在された部屋にも案内していただき、更に送り出しの女将の挨拶。

 凄いです。
 長崎の接客文化を担ってきた老舗の格と気概といった物なのでしょう。

 建物も含め圧倒されました。

 (江戸期の遊郭、或いは其処に在った”揚屋””お茶屋”といった物はそうした存在であったのでしょう。そうした物に想いをはせさせて、或いは実感させていただけた気がしました)


 という事で花月の写真を少しばかり・・・。(下手ですが・・・)


窓 手摺の造作 春雨の間 食事した部屋から 花月床柱 大広間

 この様な感じです。
 

 以上が今回の長崎でした・・・。


 ジントニック

 帰る直前、電車の待ち時間まで飲んでました。(飲み続けの旅行です)



 

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2013/06
09
[ #502 ]

DEXTER GORDON

 前回、チャーリー=パーカーの演奏が急かされている感じで切迫感を感じる・・・と書きましたが、それとは逆の印象を受けるのが・・・・。


         dexter gordon

 Dexter Gordon   「BALLADS」


 ゆったりとしたある種余裕を感じさせる演奏、またどこか大人の哀愁なんて事も感じてしまいます。
 ジャケットの写真も魅力的です。

 尤もモダンジャズを愛する方からすと、少々ウエッティーでモダンジャズとしては・・・といった意見も出そうな気もします。

 閑話休題、確かこのアルバムは62’~の演奏からのバラードのベスト集というコンセプトだったと記憶しています。そうなりますと、彼がドラッグから復帰しヨーロッパ等で活動していた時期の作品からのピックアップとなるのですかね・・・。

 そう想って聞く所為か、一寸ヨーロッパ的な哀愁の様な物をサックスの音色から感じてしまいます。
 その辺りでも日本人受けするアルバムではという気もします。

 クラッシク等もそうかも知れませんが、アメリカ=新世界的、科学的、現代的、ドライ。ヨーロッパ=、旧世界的、伝統的、民族的、ウエット・・・等と書きますと余りに単純化しすぎな気もしますが、やはりそのアメリカ的、ヨーロッパ的といった面は音楽に限らず有る様に思えるます。

 そうした(ヨーロッパで活動していた時期の影響のあるという)面から聞きますとこのアルバムの演奏、ヨーロッパの空気が塗されている気もしますし、それ故でしょうか(其処は日本人)ややウエットな面も有る私にはとってもゆったり心地よく聞こえます。

 どちらにしろ雰囲気のあるアルバムです。

 

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2013/06
12
[ #503 ]

私が遊郭に惹かれる訳 (3)

 此処のところ、私が遊郭跡等に惹かれる理由をダラダラと書き殴っている訳ですが、今回もその続きで・・・。


 16世紀末から17世紀前半にかけて官許の遊郭が成立して行ったという事なのですが、例えば、江戸では1617年に現在の人形町辺りに元吉原が設立され、1657年に浅草浅草寺北に移転、新吉原として改設というのが大まかな流れでしょう。
 京都では1589年、二条に秀吉が遊里を認可、後1602年に二条城の建設に伴い六条に移転、更に1641年に朱雀野(島原)に移転。大阪では1617年頃から新町が出来始め1627頃に成立?(ちょっと??です)、そして先日歩かせていただいた長崎丸山が1642年・・・。


 此処で気になるのが、江戸の吉原の移転、並び京都での六条から島原への移転。
 一般的にその移転理由は、江戸、京都共それぞれの街の風紀を乱す故と言われていますがこの移転に拠り、特に吉原はその在り様がかなり変わったのでは無いかと思えるのです。
 
 といいますか、遊里に求められる物、或はその在り様が変わった故の移設では無かったのか?という事。


 どういうことか?
 旧吉原から、新吉原への移転理由も色々の説が有りますが・・・。例えば、明暦の大火に拠るとか、日本堤の交通量を増やしたかったとか、江戸の中心部を再開発したかったとか、風紀の乱れが原因とか・・・。
 実際には色々と複合的な理由が有るのでしょうが、個人的には旧吉原の社交街としての重要性が減じた事。その時代風潮。それと1636年の寛永通宝の発行辺りに遠因が有りそうに想うのです。


 どういう事がいいたいかといいますと・・・。
 寛永通宝が発行された事に拠り、江戸市中及びその近郊に貨幣経済・商品経済がに定着したのでは?という事。
 (また、京都でも戦国期の貨幣の混乱から少し落ち着きを取り戻したのでは?という事)
 これに拠り(他の要因も含め)、旧吉原が社交街から売春街的に変化していったのでは?等と想像するのです・・・。
 そうして旧吉原に出入りする人間も武将(大名・旗本)主流から、旗本奴や町奴等々が主流と成り、その延長線上に幡随院長兵衛と水野十郎左ェ門の抗争なんて事も起きる。


 まあそんなこんなで新吉原に移転したのでしょうが、その後の吉原(新吉原)はかなり商業主義的に変化した様に想うのです(といいますか商業主義的な空気になった事が移転の要因となったも言えそうで)。
 元文年間辺りには、菱川師宣の”吉原の躰”なんて物も開版されますし(これって吉原ガイドですよね)、17世紀の終わり頃貞享年間には、吉原細見なんて物も造られる(これなんて、ある種風俗ガイドですよね?)。

 兎に角、商業の理論に取り込まれて行く・・・。
 唯そうなると、他の岡場所等の売春街と同じ事になってしまいます。そこで吉原は吉原なりに、その格や伝統、文化等々を維持する為に色々と足掻く・・・。


 そしてその代表的な物が、初回・裏・馴染みという作法の様に私には思えるのです。


 どういう事か?
 
 元々16世紀末から17世紀頭にかけて成立した「遊郭」は、社交の空間であったとは既に書きましたが、社交、詰まりもてなしの場ですよね。
 そうした場所においてもてなされる側が、”いくら出すからこうしたもてなしをしろ!”何て事は無い訳で、原則としては、もてなす側がもてなしたいからもてなす訳ですよね?
 またこうした言い方も出来るかも知れません。例えば茶の湯に招かれた客が、抹茶は嫌いだからコーヒーを出せ!とか、和菓子は嫌いだから、ティラミスを出せ!なんて事は無しですよね。
 また、こうも言えるかも知れません。

 ”結局社交は、主導権の譲り合いである面が強い”のでは?
 (それが判った上でもてなす側、茶室の主等は、場を仕切る、主導権を取るのでしょう)


 で、吉原の初回・裏・馴染みの作法ですが。初めて大見世に揚がった、いわば其処の場所の意味や遣り方や空気の判らない客がその空間を仕切ろうとしても(大将しようとしても)良い事には成らない。またそれを許し続けると文化も伝統も壊れてしまう。で、その空間の主導権はもてなす側の太夫が持った方が上手く行く。
 そういった目的で成立している様に思えます(京都の一見さんお断りもある種同様に・・・)。


 まあそんなこんなで、初回・裏・馴染みなんて事をやりながら足掻いていた様に思えるのですが(そんな物形式だけで明和年間には形骸化していたという説も有る事も知っていますが・・・)、江戸中期(安永~寛政頃?)になると、客の方でも拠り上手に遊ぼうといった動きも生まれ、そこで出来た価値観が通(つう)であったりしたようにも思えます。


 ではどんなやり方が通(上手な遊び方)(或いは粋な)であったのか?

 廓話の枕等でたまに耳にする「上は昼来て夜帰り、中は夜来て朝帰り、~~」なんて戯れ歌が有りますが、この昼来て夜帰る上客の”上手な遊び”とは何をしていたのか?


 それは昼に来て仲ノ町の(引き手)茶屋に上がり、芸者や遊女を呼んで狂歌を詠んだり・・・云々・・。
 で、妓楼には上がらずに帰る。妓楼に上がったとしても、遊女と同衾する事には拘泥しない。というやり方。

 詰まり遊郭で一般的に言われる”目的・実利=遊女と同衾する事”に拘泥せず、その周辺=無駄な物=遊び=狂歌等を行う。また狂歌は和歌を理解した上での見立てや捻り・穿ちがある訳でかなり知性的ですよね。

 という事で通(或いは粋)とは、実は非実利的で知性的な行為、姿勢なのでは?と思いますし、また”遊び”とはそうした物なのかもとも思えます。

 一寸説教臭いかも知れませんし、はっきり言って今の私には無理かな?

 でもやはり、どうせ遊ぶなら上手に遊びたいですし、遊べる様にも成りたい。そうした気持ちって大事な気がするのです。
 どうせ単車に乗るなら、上手に乗りたいと思いますし、ダンスだってそうです。そしてその足掻きが楽しいとも思います。そうした事って一寸大事な気がするのです。

 別に勝ち負けで無く。

 
 またこんな事を書きますと、それって高級な遊女、遊郭の話で、河岸店の遊女とか、夜鷹・そうか・船饅頭等々の下級遊女や遊びは否定するのか?とも言われそうですが、そんな事は全く無く、そうした事に惹かれる面は多いです。大体バーテンダー何て、庶民の範疇にすら入らないやくざな生き方ですから・・・。


 その辺りの事も書きたいと想ったのですが、長くなりましたので又の機会に・・・。
 

 

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2013/06
17
[ #504 ]

久しぶりにエントリー

 久しぶりにダンスのコンペに出てきました。

  結果はいま一つ。ここのところ練習不足だったので、さもありなんというところですが・・・(特にパートナーと組んでのペアでの練習が不足だった・・・)。
 そして、練習不足 → 自信が無い → 緊張して益々動けない の悪循環。
 
 そういえば昔出ていたオートバイの草レースでも何戦かに一度位こんな事をしていたような・・・私も進歩しない人間です。


 スタンダード


 

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2013/06
21
[ #505 ]

日本の酒のはなし 3

 ヨーロッパや中東で蒸留酒が造られる様になったり、神聖ローマ帝国が成立し、修道院等で葡萄栽培やワイン造りが始められた時期は我が国はどういった時代であったのか?といいますと、大和朝廷~平安時代あたり。

  ではその頃の日本でどんな酒が飲まれていたかといいますと、やはり米の酒でしょう。縄文時代はさておき弥生時代以降は基本的に米の酒が主流、やはり我が国は米が基本の国なのでしょうしね。

 そうしてこの頃になると、麹を使った酒造りもある程度定着し生産量も増えていったのでは?等と思えます(確か播磨国風土記に麹を使った酒造りの記述が登場するのも8世紀の初め位だった筈です・・・)。


 閑話休題、この時期の日本の酒の話で私が一寸気になるのが、禁酒令の様な物が結構度々出されていたらしいという事。物の本に拠れば、大化の改新の頃から平安中期(900年)頃にかけて度々発布されているらしいのです。

 これをどう捉えるのか・・・?
 当時の律令制(崩壊気味な面もあるかも知れませんが)に於いて、為政者(朝廷)が農民を厳しく管理しようとしていた、と見るのか?はたまた、当時の農民という物が、しばしばの飲酒や宴会を行う事が出来うる位に、のんびりと自由にやっていたのか?
 どうも、私には後者に思えるのですよね。第一、朝廷の発布する禁酒令に素直に農民が従っていたのであれば、禁酒令が”しばしば”発布される事など無いでしょうから。

 それに、魏志東夷伝倭人の章に記された様に、我が国の民、飲酒宴会が根っから好きなのでしょうし。
 (実際当時の禁酒令にしても、どちらかというと農繁期の群飲の禁止といった内容の様ですし・・・。)


 では当時の農民、どんな時に飲んでいたのか?

 根源はやはり、神事礼祭でしょう。
 酒とかお神酒という言葉自体に、神にささげるといった意味も有るなんて話も有りますし。(八百万の)神々の存在を感じられる場合にそれに感謝すると同時にそれと同一化しようとする行為としての飲酒・・・。

 例えば春の花見=春祭りの酒は、山に帰っていた神が里に再び下りてきた事を感謝する物でしょうし・・・(花々が咲く事をその査証と考え・・・)。
 また盂蘭盆会なんてのも、あの世の物がこちらに帰って来るという事で、其処に酒をささげたり、共に飲んだり・・・。

 また農耕儀礼。花田植えやその後の泥落としとか、秋の収穫祭・・・。



 そしてこの収穫祭や秋祭りといったもの非常に興味を惹かれるのです。

 例えば秋にドイツで行われるオクトーバーフェスト。これも収穫祭の流れを汲む物と言われ、その意味は”(収穫の)神に感謝をささげる事である”と良く説明される気がします。

 しかし私としては、もう少し深い意味もありそうな気がするのです。

 例えばオクトーバーフェストでは、”メルツェン=春に仕込んだビール”を飲み倒す・・・。
 それはそうしないと新たにビールを仕込む樽やスペースが空かないからだ、といった説もあります(そうなると、我が国の秋祭りも米倉を空ける意味も有るか?)。
 しかし私が想うには(前年に)収穫した穀物等を溜め込み過ぎてはいけないという(無)意識が古来より強固に存在したのでは無いかと思えるのです。
 採集を中心とした生活を営んでいた頃から、基本的に食料等を溜め込みすぎる事を良しとしないという意識があったのでは?と思えるのです。


 それは何故か?

 ”やはり食物連鎖を滞らせる故でしょう?”

 人が死んで土に返り、植物として再生し、虫等がそれを食し、更にそれを小動物、大型獣~、人間の口に・・・。
 そして再び土に返る。この循環の環を滞らせる事は不自然とする無意識が有った様に思えますし、その食物連鎖の観念を教義化したのが輪廻の思想でしょうしね。
 で、余剰分は蕩尽する(すべき)。そんな意味で有った様に思えるのです。

 相変わらず話がずれてしまいましたが、そうした祭りにそうした意識があり、また酒がつき物であった様に思えます。


 そういえば、この祭りと酒の関係で面白い話を聞いた事がありまして。

 祭りの執り行われる期間というのは、暑い時期程短いという説です。


 何故か?

 それは祭りの初日に酒を仕込み、その酒が醸されるまでの間が祭りの期間で、最終日にその醸された酒を皆で飲む事で祭りを締めくくる。そこで、暖かい時期は酒が早く醸される故期間が短く、寒い時期は長い、と。
 証明出来る話かどうか難しいですが、面白いです。


 それはさておき、日本的アニマに従っている当時の農民等と、海外からもたらされた仏教的思想に従い国を治めようとする朝廷との間に齟齬が生まれるのも仕方ない気もしますし、その辺りが再三発布される禁酒令にも現れていたのでは無いか?等と想ったり・・・。(またその延長線上に、明治政府の酒税と農民の抵抗なんて事もありそうで・・・)


 そしてもう一つこの時期の酒の話で気になるのが「延喜式」「令集解」という記録。

 この辺りの記録によりますと当時の正式な酒(貴族等の飲む酒)は、「造酒司」という役所で造られていた様で、また結構な種類(タイプ)の酒も造られていた様子。大体13種類の酒が造られていたとの事。

 それに比べると、私の子供の頃なんて酒というと清酒のみ、あとせいぜい御屠蘇?
 甘酒はノンアルコールでしたし・・・。

 この点だけでも、我が国の飲酒文化?や酒文化、実は古い時代の方が豊かだった様にも思えるのですよね。


 ますた 
 

 

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2013/06
30
[ #507 ]

文楽公演

 昨日、三原市芸術文化センターポポロでこの様な物を鑑賞して参りました。


 文楽公演


 文楽です。
 演目は仮名手本忠臣蔵の五段目と六段目。 
 浄瑠璃本「仮名手本忠臣蔵」の中心的作者「並木宗輔」が三原に縁の方という事で企画された公演との事です。


 開場が13時という事でしたので、先ずはその前に民族資料館、並びに中央図書館の関連展示をチェック。

 民族資料館にはこんな物が、

 内蔵助衣装

 祭りや演劇等で使われる内蔵助の衣装ですね。


 図書館にはこんな展示が・・・。

 義士伝三原秘録

 義士伝三原秘録。
 これは討ち入りから十数年の後、生き残りの義士や遺族が三原にてその顛末を藩士に語った内容の聞き書きといった物で、もしかすると仮名手本忠臣蔵の成立に影響を与えたのでは?と言われている物です。


 更に講演会場のロビーのパネル展示も鑑賞させていただき、いよいよ開演。



 恐らく文楽を生で鑑賞するのは初めての経験、何事も初体験というのはワクワクするものです。


 先ずは、上演に先立ち浄瑠璃研究家の方の基調講演。
 仮名手本忠臣蔵は竹田出雲、三次松洛、並木宗輔の3名の合作とされているのですが、その内並木宗輔が中心的存在であったと推察される理由。それと六段目の演出における歌舞伎の表現と文楽の表現の違いについて、といった内容。
 (歌舞伎の場合、早野勘平を演じる花形役者をよりかっこ良く見せる演出になり、文楽の場合は底本により忠実に緊張感の有る演出になっている。等々・・・。)



 で、実際に鑑賞した印象ですが”素晴らしいの一言”



 文楽人形、

 文楽人形おみつ

 こんな感じで別に目が動くでもなく、口が動く訳でも無いのですが、その動きの生々しい事。人型のアンドロイドやロボットの比では無いですな。人形役の方々の技術の素晴らしさ、伝統の素晴らしさにただただ唖然とします。大げさに言えば、実際の人間の演じる歌舞伎以上に生々しく感じます。また、太夫さんの語りの声も素晴らしいです。
 (この辺りが人形劇の怪しさ、魅力なのでしょう)

 そして、六段目の緊張感も確かに・・・。
 (そういえば歌舞伎の六段目だと、舞台であるおかるの生家の壁に毛皮 (犬のだったか?) が掛かっているのが定番だった筈ですが、文楽の舞台だとそうした物は無く非常にシンプルな造り。)


 唯今回は比較的後ろの席という事で、小ぶりな双眼鏡でずっと鑑賞していたのですが、手ぶれで少し船酔い的に・・・。次回は出来ればもっと前の席で観てみたい物です。



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