FC2ブログ
2013/07
03
[ #509 ]

備北辺り

 相も変らずバイクでうろうろしておりました(何時ものごとく単独行です)。
 昼前に家を出、さあ目的地は何処にしましょう? 一応目的地を決めないと走り辛いですものね・・・。
 で、今回は此処を目的地に設定。


 三味線横丁2


 三味線横丁という路地です。
 こうした名前の路地が存在する事を聞き及び、そこは路地好きお座敷好きの私としては気になる訳で・・・と、此処を目指してスタート。


 ガソリンを満たし走り始めますが寝不足気味の所為か少々頭が重く、また身体の反応も鈍い気もします。
 という事で普段よりマージンを少しばかり多めに取って走る事に・・・。
 今後もバイクに乗り続けるにはこうした事も大事に思えます。

 三味線横丁の在る新見までノンストップで走れない距離でも無いのですが、今回は無理せず途中で一休み。
 バイクを止めたのはこちら・・・・。


 三玉

 上下町という街です。
 此処も古い街並みが残っていますので休憩がてら少しばかり散歩。
 

  画像 110   画像 111   うだつ   旧警察
 

 上下町、瀬戸内(笠岡、福山、府中)~山陰(石見、大森)に至る”塩の道”の結節点にあり、江戸中期以降は天領として代官所もおかれ栄えた町で当時の面影が偲ばれます。
 建物等愛でさせていただき、休憩にもなりましたので再びエンジンに火をいれ三味線横丁を目指して走ります。


 三味線横丁の在る新見市。古くは中国山地の街らしく鉄、及びその輸送等の高梁川の水運、明治以降はセメント・縫製業等で栄えた町と記憶しております。
 という事で立派な高瀬舟の船着場跡が有ります。


 船着場

 この近くに旧花街跡、御殿町があります。


 歩いて見ますと・・・。

 今は昔ですかね?往時は賑やかだったのでしょうが、裏手辺りは多くの建物が取り払われ空き地と成っております。
 それでもこの三味線横丁、入り口側から北側に・仕出屋自由亭跡・料亭松葉跡・料亭松月跡、裏手には置屋料亭梅屋跡、他にも一軒の料亭跡(少し痛み気味)が在り。他にも料理旅館大阪屋の別館跡等残っています。


  自由亭  松葉松月 梅屋 料亭跡

 未だ住民の方が生活していらっしゃる様子なので目立たぬよう、気配を消して歩かせていただきます。
 しかし、仕出し料理屋+置屋料亭という組み合わせ、二業地の典型ですかな。往時の花街の有り様が想像でき嬉しいです。
 特にこんな物が見つかりますと私好みで嬉しいです。


 鑑札

 当時の風俗営業の鑑札です。
 (右のプレートに許可番号と業種、岡山県公安委員会の文字、左のプレートに二十才にならない方は入場お断りしますの文字)
 

 近くにはこんな建物も残っています。

 麹屋

 麹屋さんですね。
 昔の町では麹屋というのは重要な役割を果たした面があったと記憶に有ります。味噌・醤油・酒・・・等々を造る場合に何れも麹が必要な訳ですから。


 そんなこんなで街並みを愛でさせていただきまして、スタートが遅かった事もあり早めに帰途に・・。


 帰りがけ、次いでといっては何ですが、こちらの街にも立ち寄り・・・。


 北村醸造2

 東城です。


 バイクを止め最も目に付いた建物を覗くと「どうぞ上がって下さいな」の声。


 行灯

 三楽荘という建物です。


 江戸期には商家、明治期に酒造を始め後に旅館に転身。現在は町の所有となり文化財にも指定され公開されている建物との事。


 内部を見学させていただいたのですが見事な造りです。

 一枚板から削りだされた吹寄花菱格子細工の欄間であるとか、花形の窓と障子の組み合わせとか、昔ながらのの板ガラス、お庭・・・等々。離れの二階和室でお座敷遊び・・・、と行きたい気分?


  欄間  手摺2  2階座敷窓


 更に東城、新見同様こうした物も。


 船着場跡

 高瀬舟の船着場跡ですね。近くには金毘羅さんの常夜灯も保存してあり水運が栄んであった事が判ります。

 他にこんな建物等も在り・・・。


 木造3階建て  書店
 
 
 東城、雰囲気の有る私好みの街並みでした・・・。



 今回、上下・新見・東城、3箇所の街並みに立ち寄ってみたのですが、3箇所とも非常に似た空気を感じる町でした。
 古くから街道筋に存在し、その地域(半径10キロ圏?)の中心的町として賑わい、昭和の後半から急速に寂れていった町。またそれ故、建物等が冷凍保存(タイムカプセル)的に残り、現在それらを観光資源として活性化を図っている・・・。

 そうなった事。こうした町が多く生み出されている事・・・。

 色々と想います。

 

 
スポンサーサイト

Copyright © ますた [バーテンダーと呼ばれる程のバカは無し] All rights reserved.

2013/07
08
[ #510 ]

久しぶりに大阪

 昨日は店をお休みさせていただき久しぶりに大阪にいって来ました。
 主目的は・・・。


       WFパンフ

 WHISKY Festival 2013 OSAKA です。


 ウイスキーフェスティバルに顔を出すのも久しぶり、たまにはこうしたイベントを訪れウイスキー等の試飲&周辺情報の収集をしないと、という事です。


 会場はこちら、

 新梅田シティ

 新梅田シティー。 大阪らしい派手な建物。


 交通手段は飲む事を考えて高速バスにしました。しかも日帰り。

 もしかするとこれは失敗だったかも知れません。阪神高速池田線が工事に拠る片側交互で大渋滞、3キロを進むのに30分といった状態で予定より30分程遅れて大阪駅に到着(確か昔もこんな事があった記憶が、何とか成らない物か?また、私も学習しろよ!ですね)。
 この時点で既にかなり疲れています。
 さらに大阪駅北口周辺。グランフロントオオサカなんて複合施設がオープンしたばかりで、兎に角ヒト・ヒト・ヒト・・・。人ごみの苦手なおっさんは疲れが倍増です。


 それでも気を取り直し13時頃には会場到着。
 気になるウイスキーを片っ端から試飲・・・。
 会場内も結構な人ごみ。
 こんな感じ。


 会場内2 会場内

 人を掻き分け試飲といった情況(一寸大げさですけどね)。


 ゆっくりと時間をかけて試飲したかったのですが、久々のウイスキーフェスティバル、ペースがつかめなかった所為か、寝不足&移動疲れの故か?酔いが回るのが早いのです。
 更に15時過ぎ頃からは更に混雑が増した印象。
 少し早めに退散し大阪の街を歩く事に。


 どちらに向かったか?と言いますと、梅田から地下鉄を乗り継ぎ九条辺りへ・・・。

 この地下鉄九条駅近くに、昔M遊郭が有った訳でして、その遊郭跡でも散歩して酔いを醒まそうという魂胆です。

 しかし酔っ払っている所為か、初めは地下鉄路線の反対側に行ってしまい・・・。
 まあ、この辺りも大阪の下町情緒溢れる場所です。


 西九条  西九条2

 こんな建物が在ったり・・。


 気を取り直していよいよM遊郭跡に・・・。
 
 


 松島

 こんな感じで見事な妓楼建築が存在しています。他にもこんな建物が・・・。

 松島2 松島3 松島4


 この辺り、旧新町遊郭も含め大戦中の空襲で焼けたと思われるので、戦後の建物なのでしょうが(確かに一寸綺麗です)見事な遊郭建築です。といいますかこの場所、大阪南部のT地区同様現役感が溢れております。


 現役感 現役感2

 写真を撮るにも気を使います。
 


 その後は周辺を散歩したり、木陰のベンチで酔いを醒ましたり・・・。
 

 日も翳って来ましたしので目に付いた居酒屋に適当に入ります。
 大将に話し相手になっていただき軽く飲みます(まだ飲むのかよ?)。(実は遅めの昼飯も蕎麦を肴に生ビールでした)
 リーズナブル。さすが大阪?


 更にその近くのバーで一杯と思ったのですが、残念な事にお休み。
 (まあウイスキーフェスティバルの日ですからね・・・・)


 じゃあ、ってんで梅田に移動しその近くのバーで一杯と思ったのですが、ここの目当てのバーもお休み。
 では次のバーをと思って梅田の地下街を通って移動・・・。
 これが中々、目当ての場所に行き当たらない(酔っている所為か?)。
 地下街って苦手です。特に梅田の地下街は迷いそう。田舎者ですね。


 という事で先ずは帰りのバスターミナルの確認を済ませ、その近くで一寸一杯飲みながら時間つぶし。何とか帰り着きました。

 しかし歳を感じましたね。次回は新幹線を利用すべきかな。

 
 

タグ :    /    /   街並み  /   遊郭色町  /

日記・・・の様な物CM(2)TB(0)URITOP

Copyright © ますた [バーテンダーと呼ばれる程のバカは無し] All rights reserved.

2013/07
10
[ #511 ]

BARNEY WILEN

 前回、デクスター=ゴードンのバラード集が良い感じで哀愁等あり、日本受けするアルバムでは?といった事を書いた気がするのですが、その路線でいうとこのアルバムが捨てがたいのです。


              ヴァルネ・ウィラン

 BARNEY=WILEN  PHLIP=CATHERIN  PALLE=DANIELSSON
   「SANCTUARY」


 バルネ=ウィランの91年のリーダー作です。

 バルネ=ウィラン、確かニース生まれのフランス人サキソフォニスト。マイルス=デイビスの「死刑台のエレベーター」に参加したのがメジャーになったきっかけとか・・・。
 フランス人の所為かニース生まれ故か、非常に情感豊かといいますか、かなりエッチかつ繊細なSAXの音色の印象です。
 特にこのアルバムはその印象が強いですね。
 なんとなくりカールやぺルノを飲みたくなるような。
 ジャケットの絵も19世紀末的ですし。
 

 また、ウィランが愛用しているのが確か日本製ヤナギサワのサキソフォン。それ故かも知れませんが、ある種の繊細かつ情感あふれる音色になっている気もします。
 
 ついつい、店で流したくなるアルバムです。

 

Copyright © ますた [バーテンダーと呼ばれる程のバカは無し] All rights reserved.

2013/07
15
[ #513 ]

ビア・アリス そして・・・

 昨日、広島市内で開催された”ビア・アリス2013”に顔を出して来ました。


 広島市内の繁華街に在るアリスガーデンというスペースが会場。13時スタートという事でしたが、私が現地に到着しましたのが13時05分位。
 すでに吃驚する程の人出。アリスガーデンはそれ程広い空間ではありませんので余計に混雑感が有ります。

 一枚の前売り券で7種類のビールが飲めるという趣旨の中、少々行列に並ばないとビールにたどり着けないといった情況でしたが、せっかくなので私も勉強がてらしっかり7種類飲ませていただきました。


 会場はこんな情況・・・。

 会場


 スタッフの人たちは大変そうでした。頭が下がります。

 近々”地ビールフェスタ”というイベントも有りますし、最近広島ビールが流行ですかね?
 
 
 閑話休題、ビールを注いでもらう、飲みながら行列、注いでもらう・・・というやり方で、効率よく7杯飲ませて頂き、2時過ぎには早々に会場を後にしました。



 軽く腹を満たした後、近くの公園で一服・・・。

 猫

 猫に相手をしてもらいながら・・・・?



 そこから酔い覚ましも兼ね駅まで歩く事に・・・。

 歓楽街を中央突破、日曜日の昼間という事で閑散としております。
 この歓楽街、昔は東遊郭と言われた場所。


 地図

 昭和14年の職業別明細図ですと、弥生町遊郭と記して有ります。
 現在はソープ街、土地の記憶というやつでしょう。

 ソープ街

 広島市内、原爆で一面焼け野原になっていますので戦前の建物は残っていません。また昭和の高度成長期、支店経済の街として歓楽街も賑わい建物も建ち代わっていますので古い建物は少ないです。

 弥生町


 これくらい?

 タイル

 こんなタイルは時代を感じられ一寸嬉しいですが・・・。


 しかし、ここから少し北、旧東遊郭の北の端辺りに1軒、往時の遊郭の雰囲気を色濃く残した旅館があります。

 一楽荘  一楽荘2




 ついでに、駅前の市場の路地も散歩。

 市場

 日曜日なので閑散としています。


 此処も近々再開発されるとか・・・。

 其処の煙草屋さんで缶入りピースを衝動買い。


 空けてびっくり。
 蓋の造りが変更されています・・・。

 缶ピース


 全ては変り行くのでしょうね。

 

 

Copyright © ますた [バーテンダーと呼ばれる程のバカは無し] All rights reserved.

2013/07
19
[ #514 ]

ビールのはなし 3

 先日”ビア・アリス”というイベントでビールを飲んで来ましたので、今回はビールのはなしを・・・。

 以前、旧ローマ帝国が勢力圏として手中にした地域は、ワインが造れる(葡萄栽培が可能な)地域に合致する、といった事を書いた覚えが有るのですが、物事には当然例外もある訳で、その一つがブリテン諸島=今の英国。
 (此処は葡萄栽培出来かった地域にも関わらず帝政ローマの時期ローマの勢力圏でした。尤も今日では葡萄の品種改良や栽培技術の発達等々の理由に拠り英国でも結構良いワインも造られています様で・・・)

 では、古い時代のイギリス人は何を飲んで酔っ払っていたか?といいますとそれはエール(Ale)でしょう。
 此処でエール(Ale)とビール(Beer)の違いは?となりますと・・・。
 現代では、

 エール=上面発酵(高温発酵・常温発酵・短期発酵)のビール。イギリススタイルのビール。
 ビール=下面発酵(低温発酵・淡色系・長期発酵・・・・・)のビール。ドイツスタイルのビール。

 というのが一般的かと思います。


 そしてエール系は、比較的短い時間で発酵される故、原料由来のフルーティーさであるとか色々の味が残り易い、言い換えれば雑味が多い。また、昔だと品質が安定しにくい。
 ビール系は、逆により完全発酵的になりクリアで雑味が少ない、等々。

 尤もエール系もビール系も色々の場所で色々な物が造られていますので一言ではいえない面も有ります。

 また、エールは英語系を語源とし、ビールはラテン語系を語源とするともいえると思います。


 そこで英国圏の話に戻りますと、当時飲まれていた酒の主流は”エール”。つまり穀物を醸造発酵させて造った飲み物。
 寒冷な気候で葡萄が出来ない故、酒といえばエールだった訳ですね。
 その後、紀元前後からローマ人が侵入し徐々に支配下に置かれる。此処でラテン語系のビールという言葉も使われる事に成る。
 一説によるとこの当時の英国では、ビール=果物やハーブ由来の酒を表していたのではとも言われています。

 その後まもなくローマ人はブリテン諸島から撤退(400年頃)。(やはりワインが出来ない土地に長居をする気は無かったのかも知れませんね? 笑 )
 更にその後、英国はノルマン人に侵入されるのですが、その後しばらくビールという言葉が使われなくなったという話が有ります。

 そしてビールという言葉が再登場し、それが指し示すのはホップを利かせたエール(主として外国人、ヨーロッパメインランド向けであったらしい)。
 更に後に、下面発酵ビールが普及するようになり、現在のようにエール=上面発酵系、ビール=下面発酵系に適用される様になり現在に至る・・・。と、これが大雑把な英国圏のビール(という名称の現す酒)の歴史ですかね。
 詰まり英国圏でビールの言葉が現す物は、果実等の醸造酒 → ホップの利いたエール → 下面発酵のビール・・・と変化したという事。
 (ジンジャービア、ジンジャーエール、ルートビア、バーレーワイン何て物も有りますし、中々面白いといいますか、難しいといいますか・・・)


 閑話休題、こんな感じで英国圏ではビールが指し示す飲み物の意味は微妙に変化していったりする訳ですが、その点エールはエールとして変らない訳で、結局昔から英国圏では、酒=エールという事もありそうです。

 それは我が国で酒の言葉が表すもの=米の酒・日本酒であり、ローマ文化圏では、酒=ワインで在る様に・・・。(the days of wine and roses 酒と薔薇の日々のwineが酒と訳される如く)

 言い換えると、我が国では酒と言えば日本酒が絶対視されていて、ローマ圏ではワインが絶対視され、英国圏ではエールが絶対視されていた、と言い表しても良いかも知れません。

 
 実はこれって結構意味が在る様に思えます。

 昔、それこそ昭和30年代以前の我が国では酒=日本酒な訳で、例えば神社に供える酒=日本酒、三々九度等の儀式で使われる酒も当然日本酒。またそうした酒に対して、やれ吟醸がどうしたとか精米歩合がどうとか、アル添だ、純米だ・・・・。なんて事は言わなかった(今でも言わない気がします)様に思います。
 早い話、酒は酒。であったと。
 その後、今の様に細かいスペック等を一般人まで口にする様になったのは、日本酒という物を”相対化して見る”ようになった故かとも思えます。

 そこで英国ではエールを絶対視していたという事になるのですが、それ故にヨーロッパ人とは異なり、ワインを相対化して視る事が出来た訳ではないかと思える訳です。それが18~19世紀頃にワインのテイスティングなり批評なり飲み方なりを提唱・確立したのが英国人であったという事に繋がるのだとも思えるのです。(当時、シャンパーニュを特別で高級な酒として”発見”するのも英国人ですし)(現在だとその分野はパーカーポイント等、米国主導という気もしますが)(あるいはAOCの規格でフランスが主導権を取ろうとしているか?)

 またそれ故英国で飲まれていたエールも時代と共に単なる酒として画一化の方向に向かったとも思えるのです。
 例えば18世紀頃に誕生し盛んに飲まれていたポーターも、英国では1970年頃には殆ど絶滅したという事もそうした理由に拠る様に思えます。
 (我が国で所謂清酒以外の日本酒が一時期略絶滅しかかった様に)

 また逆にその後、世界的に色々のタイプのワイン・ビール等が造られる様に、流通に乗る様になって来る。
 世界的に地酒ブーム様な情況に。

 一つの転換点があったのかも知れません。
 それは絶対的な物の消滅という事。(勿論、情報の氾濫や流通の発達を遠因として)

 現代という事なのでしょうね。

 
 ビア・アリスで色々の種類のビールを飲みながらそんな事を考えておりました。

 ますた
  
 

Copyright © ますた [バーテンダーと呼ばれる程のバカは無し] All rights reserved.

2013/07
24
[ #515 ]

私が遊郭に惹かれる訳 (4)

 相変わらず、遊郭絡みの戯言を少々・・・。

 前回は江戸時代の事を少し書いのですが、ではその後の事はといいますと・・・、
 1868年に元号が明治となり近代化・文明開化の時代と成りますが、この明治から大正に掛けそれこそ全国至る処に遊郭(地)が造られるのですよね。
 言い換えれば”明治とは最も遊郭が造られた時代”と言っても良いかも知れません。明治5年に(マリア・ルーズ号事件の事も有り)芸娼妓解放令が造られたにも係らずです。
 (最も娼妓解放令は逆に娼妓の存在に政府がお墨付きを与えた事にも成ったのでしょう)
 (明治33年の自由廃業判決や娼妓取り締まり令も同様に)(或いは表面的に公娼制度から西洋的私娼制度=自由恋愛を建前とした、への移行)

 兎に角、明治時代はいたるところに遊郭が造られた時代。
 それもかなりの面、市町村・道府県主導で。


 何故か?

 恐らく最も多かった理由は、所謂”町興し”でしょう。
 この”まちおこし”という言葉、今でもやたらと耳にしますが・・・。
 新開地の振興や町の賑わいの創設、税収の増加等々を目指して多くの遊郭が造られる。
 また他にも、軍関係者の遊び場としてであるとか、文明開化の象徴である鉄道敷設の工事関係者の遊び場、工場労働者の遊び場といった理由も多かったでしょう。

 さらに明治後半から大正・昭和初期には日清・日露・一次大戦・満州事変と戦争の時代であると同時にある種バブルの時代。
 それはそうですよね、戦争は壮大な消費活動である訳ですから。武器・軍用品はフル生産、関連工場の在る周辺地域等は好景気に沸く訳で、”成金”という言葉のこの時代に生まれますし、大正ロマン、昭和モダンの風俗等に鑑みてもかなりバブリーな時代と言えると思います。

 ではそうした時代に遊郭や遊女(娼妓)はどういった状況か?と言えば、それはかなり哀しい状況に陥っていたと言えそうな気がします。


 そもそも明治の近代化・文明開化とは何だったか?といえば、それは日本の西洋資本主義化であったと言え変える事も出来そうで、この西洋型の資本主義、どういった事かといえば、全ての物事・文物が商品化される事と言い換える事が出来そうにも思えます(それは資本の理論の席捲とも言えそうです)。
 そうした中で、感情も生物としての肉体も持つ一人の女性(人間)が、遊郭で働くようになった時点で”娼妓”という一つの商品に物化されて行った時代といっても良い様に思えます(勿論、男性だって”労働力という名で物化される訳ですが)。
 更に、上記のように明治(中期以降)は都市部には工場地帯も出来急速に発展する。逆にそれは農業に依存する農村部等の相対的地盤沈下をもたらす・・・。農家の娘さんが借金の形に女衒に売られるといった事も頻発する。
 また、そうした状況の中でキリスト教系の女性人権運動の救世軍といった物も登場する。
 (このキリスト教系女性人権運動、同時期アメリカでも盛んで、後の禁酒法の成立にもある種利用された面も在る様に思うのですがその辺りの関係性も一寸気に成ります・・・)

 兎に角、色々な意味で、遊女哀歌・遊女哀史といった状況が生まれた様に思えます。
 またそういった状況は戦後も継続し、売春禁止法制定の要因にもなる訳ですよね。

 

 唯私としては、こうした明治期~の遊郭にはもう少し違った面もあったのでは?とも想っています。

 それは、”明治の近代化=社会の資本主義化”、これに馴染めない人々・違和感を抱く人々・江戸時代まで続く日本的心情や文化・慣習を持った人々(例えば自由民権等の運動家や作家・文化人等々)を惹き付けた面もあったのでは?という事。

 また戦後に於いても・・・。

 大戦中唯一の価値観であった”国”あるいは”国家神道””国粋主義”といった物が敗戦に拠り否定され、その価値観の空白に挿入されたのが、民主主義(資本主義・個人主義)・進歩主義(社会主義・共産主義)で有ったのでしょうが、そのどちらにも馴染めない連中(それは両陣営から反動的なんてレッテルを貼られたり)を惹き付けたのが、色町であったり盛り場であったりする訳で・・・。


 これはどういう事か?

 思うに、明治維新以降に日本を席巻する西洋型資本主義が全ての文物を物化・商品化してしまうといった中で、遊女のその”女性性”という部分がより人々を惹き付けたのではないか?という事。
 それは、ある種貨幣に代表される”文明・”から最も遠い部分・・・・。女性(遊女)のプリミティブさ(源初性)、アニミズム性(霊性)、アルカイック(その微笑)が物質主義の中でより光を放ったのではなかったという事です。
 (また、それらは伝統的母性なり母系社会の無意識的象徴であったかもしれません)



 そういえばこの遊郭の話、確か”何故私が遊郭跡・色町跡等に惹かれるのか?”という理由で始めた筈。

 その理由の一つが恐らくこれです。遊郭にはある種日本古来の(明治維新に拠り消される)文化や空気の様な物が存在し維持されていた面が有るのでは無いか?という事(さらにその跡にはその残滓の様な物が)。

 
 また、明治以降の遊女(娼妓)は非常に哀しい状況に陥ったと書きましたが、では江戸時代の遊女が皆幸福であったか?というと恐らくそんな事は無い訳でして。
 江戸中期以降、妓楼の楼主は忘八と呼ばれたりする訳でして。”忘八”詰まり、金儲けのために人間が忘れてはならない八つの”徳”を忘れた人間(現代で言うところのブラック企業のオーナー? 笑 )。その頃からから遊郭は”金が仇(かたき)”の世界であった事も事実。
 当時(江戸中期~、特に明治~昭和の中頃)の遊郭、この金(文明)が圧倒的な存在感を持つと同時に、そのある種逆の位相の女性(情・自然)という存在も濃く在り、更に客の感情も色濃く存在した空間である訳で、多くの人々の思念の様な物が渦巻いていた空間ともいえる訳ですよね。

 その残留思念の様なもの・空気が感じる事が出来れば(そこで何かを思えれば)、という気持ちが在る事も理由の一つ。


 更に、遊郭跡という場所。そうした残留思念等々ある種独特な雰囲気を宿す場所故、昭和の高度成長期にも割りあい再開発から逃れている面も多いのです。詰まり、戦前の街割りや建物、雰囲気が残っている場所が多いのです。(それも20世紀一杯であったという気もかなりしますが・・・)(家主の高齢化・建物の寿命・小泉改革・世相の変化等々が理由ですかね?)

 実際にはこれが一番の理由かも知れません。


 はっきり言えば単なる私のノスタルジーな訳ですが(笑)。

 でもやはり、遊郭跡とか古い町並みに惹かれるのです。
 遊郭や色町跡、それは絶滅種・絶滅危惧種・滅んでしまった物・滅びつつある物・・・・。
 一寸好きでね。
 何故ならそれら(滅んでしまった物、滅びつつある物)は、優しいですから・・・・。


 ますた 
 

Copyright © ますた [バーテンダーと呼ばれる程のバカは無し] All rights reserved.