2013/02
03
[ #461 ]

あるコラムを読んで

 1月余り前、昨年の年末辺りに某新聞コラムに興味深い事が書いてありました。

 それは、衆議院総選挙を経て成立した自民党内閣は”ヤンキー”内閣では?といった内容だったのですが。久々に面白く思えました故その事を少々・・・。
 

 そのコラムの内容を掻い摘んで記せば。

 この選挙で自民を支持した層は地方の組織票で、それは中学校時代の不良が地域に残りヤンキー的保守と成った人々が中心と成った組織の票である。

 そして、それらの人々の特徴は・・・、
・気合とノリがあれば何とかなる ・理屈をこねている暇があったら行動しろ といった”反知性主義”であり、また徹底した”実利主義”である。
・またそれは、日本に古くから根付いた物であると同時に、彼らの言う伝統とは、実は3世代程度しか遡れない物である・・・。

 といった内容であったと記憶しています。

 
 このコラム、それはそれで首肯できる面もあり、多少物足りない面もまたあり、また色々と考えさせられる面もありまして・・・。


 このコラムの中で、そうした地域のシステムが治安維持にも貢献している伝統的存在といった部分があったのですが、それは恐らく、江戸期から続く自身番であるとか、町や村の自治組織の事を想像されているのでしょう。

 では、この江戸期の町や村とはどのようなものであったのか?


 先ず基本的に物事の意味を決めるのは、その枠組みであると思えます。(名前、肩書き等々と言っても良いかも知れません)
 また、その意味が何が正しいか?あるいは何をすべきか?といった事を決定する。

 また、その枠組みを決定し保障するのは、アニミズム(的無意識)や共通体験やそこから生まれた慣習であるとも思えます。

 昔、お米を粗末にするとお米の神様がお怒りになり目が潰れるよ。とか、台所には台所の神様が、雪隠には雪隠の神様が居るとか。あるいは、本・書籍を跨ぐものでは無い・・・等、教えられましたが、そういう事です。

 わが国はすべての物に精霊が宿る国、といわれるのもそういう事でしょう。
 日本はそこかしこに妖精の棲む国、と言ったのはイザベラ=バード、でしたか?それも、そうした意味でしょう。

 
 そして江戸期にはこのアニマがしっかりと存在感を持っていたという事。


 またこうも言えるかも知れません。江戸期にも色々の自治的枠組みが存在したが、その中心と成ったのは村や町であったと。
 そして、その構成員の組織への帰属意識を担保するのは、共通の体験とか、共通の記憶、そして共通のアニマ(神)であり、そのアニマを保障するのは、各地の神社・祠・鎮守の森・そして祭りであったと。
 (言い換えますと、これが昔の神道ですかね)


 その後、江戸末期から明治初期に架け西洋から流入した近代合理主義、或いは科学といった物が、それらの精霊、神々という物を無効に(殺)していった訳ですよね。
 それにより(アニマ的)物事の枠組み、意味というものが非常にあやふやに成っていった。

 意味があやふやになるという事は、何が正しいかの価値基準も変わって(あやふやになった)しまった。

 そうした状況は人々を不安にさせ、その不安に感じた人々、精神的に不安定になった人々はどうしたか(或いは何が彼らを取り込んだか)?


 勿論第一は、その西洋合理主義とも思えますが、この時期他に代表的なものの一つが、新興宗教でしょう(たとえばT教とかO教)。または自由民権という思想もあったかもしれません・・・。


 しかしその後、明治後半から昭和の初めに掛けて色々の物を取り込み、唯一無二の枠組みと成立して行ったのが、国(国家・国体)という枠組みであったと思えます。(それは同時に地域・地方という枠組みを弱める面もあったかもしれません)

 そしてその枠組みを意味付けたのは、明治に作られた国家神道という宗教。
 (故に太平洋戦争の末期、特攻というジハード的行為も生まれた訳ですし、特攻隊員という殉教者も生み出したのでしょう)


 それが敗戦により、その唯一無二と思われた国家という枠組み(意味)が否定される。(消えてなくなる。)
 
 当然、多くの人々(庶民は)精神的に混乱し、不安定となる。

 で、その人々を取り込んだ(縋った、依存した)物は・・・・。

 思いつくまま記しますと。



 ・明治維新の混乱同様に新しい宗教。(たとえば S とか)

 ・進歩主義というイデオロギー。(それは、共産主義、マルクス主義、社会主義といった近代西洋思想)

 ・民主主義というイデオロギー。(それは、個人主義の別名でしょう。選挙の基本が一人一票である以上)

 ・自由というキーワード。(それは、自由貿易主義であり、ひたすらな蓄財を肯定する自由でしょう)(自由という言葉自体はもう少し深そうですが・・・)

 ・地域の枠組みの代わりをしたのは、企業・会社といった枠組み(家族手当なんてその査証でしょう。 Aさんって、仕事は人並みだけれども、子供をたくさん抱えて大変だから家族手当で援助しましょう。とか、終身雇用とか・・・)。

 ・また企業が進出しなかった地域では、再び地域の枠組みを強化する。(たとえば、自治体・青年団等の主導した成人式なんてその象徴的動きでしょうし)

 等々・・・・。


 しかし70年代以降(20世紀最後の四半世紀は)、それらの枠組みも(種々の事情に拠り)力を失って行く。
 先ずは進歩主義が、そして能力主義・派遣労働法なんて物と共に、企業あり方も変わる・・・。
   
 そこで人々(庶民)はどうしたか?

 ・ひとつは、共通の趣味といった関係性を中心とした枠組み(おたく文化とかそうですよね)。(しかし、これってあまり生活の基盤とはなりえないですが。)

 ・またまた新しい宗教。(話題となった、OS教とかKKとか)

 
 唯どちらにしろ、社会が最小単位である”個人”という枠組みが無関係に集合し成立している物、或いはそうした状況と成ったという現実を、人々は意識的、無意識的に感じざるを得ない状況が生まれたのでは無いかと思えます。


 しかし人類も他の哺乳類の多くと同様に群れを作る動物。
 一人の独立した”個”であるという事は、それなりの孤独感と付き合わなければいけない訳で・・・。


 そこで先に書いた、趣味のサークル(おたく)的なものとか、或いはメル友、SNS友、ツイッター、フェイスブックの友達(知り合い)等がはやる状況も生まれて来たり・・・。

 しかしそれらの枠組み、根拠脆弱ですよね・・・。


 ここで仲間としての根拠、同じ枠組みの構成員であるという根拠として一部で強く浮かび上がってきたのが、中学の同級生という同一体験に思えます。
 特に”中学の頃は一緒に悪さをしたよね”という体験。(またそれは、不良故に他者からオミットされる事により仲間意識を拠り強化する)

 また優等生等は、高校~大学~就職と言う過程で都会に出、そこで新たな枠組み(高校の同窓、大学の同窓等)を得る。

 さらにいえば都会という個人主義的人々の集まった出来上がった空間の作法に疲れた人々も、また中学の同窓という部分に依存を高める・・・。


 結局、アニマの死んだ後に地域の枠組みを保障するのが中学の体験、或いは地縁というものだったのかも知れません。
 新興住宅地や集合住宅に昔からの共通のアニマは見出せないですしね。
 また、ソーランなんていう物が昔の祭りの役割を担わされる。


 そうして地元にのこった、或いは戻った(元)不良(ヤンキー)を取り込んだのが、地方に根付いた色々の組織であり。この組織が、自民党の組織票を構成している。そしてこの組織票が力を発揮したのが前回の選挙。

 長くなりましたが、そのコラムが書いた現代日本の状況とはこうした意味なのでしょう。


 最近よく言われます地域起し、地方分権をもたらす意識、政治状況ってこの辺りから来てるのでしょう。


 でもまあ、それはそれで、そんなものかも知れません。

 ”政治”(或いは首長)の役割って、結局、帰属している組織により多くの富をもたらす事でしょうし(外交的政治)。その得た富を、内部でいかに構成員が納得するように分配するか(内政)でしょから・・・。


 唯、あまりに地方の枠が強固に成り過ぎますと、”国”という枠組みや”社会”という枠組み、”個”という枠組みも消えてしまうのも確かかも知れません。




  
 ではこうした事が何をもたらしたのか?どういった事に成るのか?・・・・。



 先ず、こうした組織がわが国では何故強固なのか?

 考えられるのは、よく言われる”親分(先輩)が白と言えばカラスも白い”といった言い回しに代表される、ある種儒教的感覚、思考。
 もともと儒教という物、閉じた枠組み(地域、血族、等)の内部で無益な争いを減じ、枠組み(組織)の維持。発展、勢力拡大を目指す処世術、或いは思想といったものでしょうから、それはそれで理にかなっているのでしょうが・・・。

 唯、その枠の外に出た場合、カラスはやはり黒い訳で・・・。
 余りに内向きな志向はやはりどこか弊害もありそうです。


 知らない街に行くと疲れるとか、或いはオフィシャルのマナーとかルール、お約束の崩壊とか・・・。
 まただからこそ(それらに適応する事に疲れるから)、内向きにグループを作るのでしょうが。

 またあまりにも内向き(組織)の利益重視は結局、社会のルールとか法律等を無視する事、公の利益を損なう方向に向かう可能性も高い様にも思えます。
 (少し前から報道される元暴走族グループとか)(或いは地域の組織の利益≒補助金が、財政赤字を悪化させた一因にも思えますし)


 結局、血で血を洗う様な戦国時代とか中国の三国時代、或いは”春秋に義戦無し”の時代とか、そういった方向に向かうのかも知れません。



 えらそうな事ばかり書きましたが、じゃあ手前はどうなの?言われますと・・・。難しいですね・・・。

 唯、現在私はバーテンダーで、また「バーのカウンターは肩書き(組織とか)を離れ、一人の人間(個人)として座るのが似合う場所です」等と常々言っている手間、私自身も必要以上に、いちバーテンダーといったもの以外の帰属意識は減ずべきであろうとは思っています訳で・・・。


 まあ、はっきり言えば、引き籠り気味の個人主義で、身勝手な人間なのかも知れません。
 (だからこそ、バーテンダーをしているとも言いえますが・・・)

 唯その分、孤独感にも少しは慣れたのかも知れません。


 どちらにしろ現代文明がもたらした物は、無関係な個人の集合体という世界であり、唯一残ったスケールは価格といった世界にも思えます。
 (またその唯一のスケールである価格(貨幣)(資本主義)を疑わない故の実利主義であり、反知性主義かもしれませんが。)



 蛇足ついでに記せば先の大戦は、「国とか地域の枠組み、伝統、文化、宗教、歴史、慣習etc、を守ろうとする勢力(それはフランス革命後の議会で”右”と言われた勢力)と、それらを壊そうとする勢力(自由貿易主義、同”左”)の戦いであり、その結果後者が勝利した戦いであった」という見方も出来そうです。


 そうして、その延長線上に今日が在るだけなのでしょう。


 さてはて、如何なる事に成りますやら?


 くどくなりました。

 

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