2013/06
12
[ #503 ]

戯言 6月

 此処のところ、私が遊郭跡等に惹かれる理由をダラダラと書き殴っている訳ですが、今回もその続きで・・・。


 16世紀末から17世紀前半にかけて官許の遊郭が成立して行ったという事なのですが、例えば、江戸では1617年に現在の人形町辺りに元吉原が設立され、1657年に浅草浅草寺北に移転、新吉原として改設というのが大まかな流れでしょう。
 京都では1589年、二条に秀吉が遊里を認可、後1602年に二条城の建設に伴い六条に移転、更に1641年に朱雀野(島原)に移転。大阪では1617年頃から新町が出来始め1627頃に成立?(一寸、?です)、そして先日歩かせていただいた長崎丸山が1642年・・・。


 此処で気になるのが、江戸の吉原の移転、並び京都での六条から島原への移転。
 一般的にその移転理由は、江戸、京都共それぞれの街の風紀を乱す故と言われていますが、この移転に拠り特に吉原は、その在り様がかなり変わったのでは無いかと思えるのです。
 
 といいますか、遊里に求められる物、或はその在り様が変わった故の移設では無かったのか?という事。


 どういうことか?
 旧吉原から、新吉原への移転理由も色々の説が有りますが・・・。例えば、明暦の大火に拠るとか、日本堤の交通量を増やしたかったとか、江戸の中心部を再開発したかったとか、風紀の乱れが原因とか・・・。
 実際には色々と複合的な理由が有るのでしょうが、個人的には旧吉原の社交街としての重要性が減じた事。その時代風潮。それと1636年の寛永通宝の発行辺りに遠因が有りそうに想うのです。

 どういう事がいいたいかといいますと・・・。
 寛永通宝が発行された事に拠り、江戸市中及びその近郊に貨幣経済・商品経済がに定着したのでは?という事。
 (また、京都でも戦国期の貨幣の混乱から少し落ち着きを取り戻したのでは?という事)
 これに拠り(他の要因も含め)、旧吉原が社交街から売春街的に変化していったのでは?等と想像するのです・・・。
 そうして旧吉原に出入りする人間も武将(大名・旗本)主流から、旗本奴や町奴等々が主流と成り、その延長線上に幡随院長兵衛と水野十郎左ェ門の抗争なんて事も起きる。


 まあそんなこんなで新吉原に移転したのでしょうが、その後の吉原(新吉原)はかなり商業主義的に変化した様に想うのです。(といいますか商業主義的な空気になった事が移転の要因となったも言えそうで)
 元文年間辺りには、菱川師宣の”吉原の躰”なんて物も開版されますし(これって吉原ガイドですよね)、17世紀の終わり頃貞享年間には、吉原細見なんて物も造られる。(これなんて、ある種風俗ガイドですよね)

 兎に角、商業主義の理論に取り込まれて行く・・・。
 唯そうなると、他の岡場所等の売春街と同じ事になってしまいます。そこで吉原は吉原なりに、その格や伝統、文化等々を維持する為に色々と足掻く・・・。

 そしてその代表的な物が、初回・裏・馴染みという作法の様に私には思えるのです。


 どういう事か。
 
 元々16世紀末から17世紀頭にかけて成立した「遊郭」は、社交の空間であったとは既に書きましたが、社交、詰まりもてなしの場ですよね。
 そうした場所においてもてなされる側が、”いくら出すからこうしたもてなしをしろ!”何て事は無い訳で、原則としては、もてなす側がもてなしたいからもてなす訳ですよね?
 またこうした言い方も出来るかも知れません。例えば茶の湯に招かれた客が、抹茶は嫌いだからコーヒーを出せ!とか、和菓子は嫌いだから、ティラミスを出せ!なんて事は無しですよね。
 また、こうも言えるかも知れません。

 ”結局社交は、主導権の譲り合いである面が強い”のでは?
 (それが判った上でもてなす側、茶室の主等は、場を仕切る、主導権を取るのでしょう)


 で、吉原の初回・裏・馴染みの作法ですが。初めて大見世に揚がった、其処の場所の意味や遣り方や空気の判らない客がその空間を仕切ろうとしても(大将しようとしても)良い事には成らない。またそれを許し続けると文化も伝統も壊れてしまう。で、その空間の主導権はもてなす側の太夫が持った方が上手く行く。
 そういった目的で成立している様に思えます。(京都の一見さんお断りも同様に・・・)


 まあそんなこんなで、初回・裏・馴染みなんて事をやりながら足掻いていた様に思えるのですが(そんな物形式だけで明和年間には形骸化していたという説も有る事も知っていますが・・・)、江戸中期(安永~寛政頃?)になると、客の方でも拠り上手に遊ぼうといった動きも生まれ、そこで出来た価値観が通(つう)であったり粋(いき)であったりしたようにも思えます。


 ではどんなやり方が粋(上手な遊び方)であったのか?

 廓話の枕等でたまに耳にする「上は昼来て夜帰り、中は夜来て朝帰り、~~」なんて戯れ歌が有りますが、この昼来て夜帰る上客、上手な遊びとは何をしていたのか?

 それは昼に来て仲ノ町の(引き手)茶屋に上がり、芸者や遊女を呼んで狂歌を詠んだり・・・云々・・。
 で、妓楼には上がらずに帰る。妓楼に上がったとしても、遊女と同衾する事には拘泥しない。というやり方。

 詰まり遊郭で一般的に言われる”目的・実利=遊女と同衾する事”に拘泥せず、その周辺=無駄な物=遊び=狂歌等を行う。また狂歌、和歌を理解した上での見立てや捻り・穿ちがある訳でかなり知性的ですよね。

 という事で粋とは、実は非実利的で知性的な行為、姿勢なのでは?と思いますし、また”遊び”はそうした物なのかもとも思えます。

 一寸説教臭いかも知れませんし、はっきり言って今の私には無理かな?

 でもやはり、どうせ遊ぶなら上手に遊びたいですし、遊べる様にも成りたい。そうした気持ちって大事な気がするのです。
 どうせ単車に乗るなら、上手に乗りたいと思いますし、ダンスだってそうです。そしてその足掻きが楽しいとも思います。そうした事って一寸大事な気がするのです。

 別に勝ち負けで無く。

 
 また、こんな事を書きますと、それって高級な遊女、遊郭の話で、河岸店の遊女とか、夜鷹・そうか・船饅頭等々の下級遊女や遊びは否定するのか?とも言われそうですが、そんな事は全く無く、そうした事に惹かれる面は多いです。大体バーテンダー何て、庶民の範疇にすら入らないやくざな生き方ですから・・・。

 その辺りの事も書きたいとも想ったのですが、長くなりましたので又の機会に・・・。
 

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こんにちは、お元気でしょうか。

>寛永通宝が発行された事に拠り、江戸市中及びその近郊に貨幣経済・商品経済がに定着したのでは?という事。

これさすが、鋭いですね。私はその辺のことは詳しくないですがそんな気がします。少なくとも近郷の商家が貨幣を持ち出したのは、商才のある農家出身者が汚賄商などを兼業することで江戸の周辺にも貨幣経済が芽生えたことに関係があります。そのためには汲み取る人糞(失礼)が十分に無くてはならず江戸の人口が十分に増えなければ成立しません。

また、敷地面積と遊郭・遊女の数も新吉原のほうが圧倒的に勝っていたのではないでしょうか。
「田舎侍の吉原詣」のような、地方からのおのぼりさんをお迎えするためにも規模を大きくしたのではないでしょうか。

きっと、統括していたお偉方や裏街道のお兄さん方の思惑もあったのでは、とも思うのですが。考え出すと面白いですね。

05時すぎに あやみ さんから

2013/06/15(土) | URL | #-

2013/06/15 - ■■■

 あやみ様、何時もコメントありがとう御座います。
 学校で習う歴史にしても、TV等の歴史番組にしても所詮特定の見方の様に思える昨今です。
 イスラム教にしても、良く「コーランか剣か」というやり方で勢力を拡大したと言われましたが、確か本来は、「コーランか納税かはたまた剣か」であった記憶も有ります(コーランの教えに従い喜捨をするか、それをしない異教徒は納税するか、そしてどちらも拒否するならば戦う・・・)。
 なんといいますか・・・。

09時すぎに ますた さんから

2013/06/15(土) | URL | #-

2013/06/15 - ■■■

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