2014/11
17
[ #665 ]

落語の世界?

 現代社会というものは自らの想いを殺して会社等(組織)の理論に従うと、大人とは言われるが同時に人でなしにもなってしまいそうで、逆に己の思いに素直に従うと”餓鬼”と呼ばれてしまう・・・。
 じゃあどうしろって言うの?となってしまうと・・・・。

 そこでその辺り、落語の世界に学ぶなんて楽しそうな気がします・・・と前回終わっていたのですが、では落語の世界とはどんな物なのか?という話で・・・・。



 落語の世界といいますと、やはり思いつくのは”熊さん””八っつぁん”といった人たちの世界。
 (屋根?)大工の熊五郎に大工の八五郎、左官の長兵衛さんに魚屋の金さん、道具屋の甚兵衛さんに経師屋の清さん。他、髪結いのお崎や若旦那とか・・・・・。
 まあ、そんな人たちの世界。

 そこを代表して大工の”熊さん”主演?で話を進めますと・・・・・。


 先ず大工の熊さんの主観的自己認識(自己規定)は、当然ながら自分=大工な訳ですよね。
 そこで熊さんが道具箱を担いで世間=仕事場に出て行ったとして、周囲の人々の彼に対する(客観的)認識も、熊さん=大工な訳で・・・。凄くあたりまえなのですが、これって(主観と客観の一致って)収まりが良い訳です・・・・。
 落語の世界の良さって、実はこんな感じの良さだと思えます。そしてこれが結構大事な気がするのですよね・・・・。

 唯、ここで一つ加えて言えば・・・・、

 熊五郎自身が「俺は大工の熊五郎だ」と言ったり想ったりしたとしても、周囲が「熊五郎?あんな腕の無いやつ大工じゃねーよ!」といえば上手くいかない訳で・・・・。

 *詰まりは自分の存在(の意味)という物、実は他者が決めると言う事なのですよね・・・・。これが実は凄くあたりまえで重要な気がします。


 また大工の熊五郎さん、常に大工の熊五郎か?というとそうでも無い面も有りそうで・・・。

 例えば長屋に帰り大家さんの前に顔を出した時は、当然ながら”店子”の熊五郎な訳でして。更に両隣に住まわれる方からすれば”お隣の熊さん”ですよね。カミサンに言わせれば”ウチの馬鹿亭主の”熊五郎かも知れませんし・・・(勿論、カミサンの認識も”大工の熊五郎”かも知れませんが、これはこれで良い気もしますよね・・・・)。

 *詰まり他者に規定される自分の存在・意味なんて、場面や関係性により求められる物も変わる訳で、まあ場面場面で最低限それらしくしとけば良いわけですが・・・。(またその辺りのらしさや、らしく無さが落語の笑いになったりもするのですが・・・)


 更に、あるいは加えて言えば・・・、
 例えば熊さんが大門潜って仲ノ町となりますと・・・・。
 そこでは基本的に大工であるとか何処に住んでいるとかすら関係無くなる訳で、上手な素見しが出来るかどうかだけが重要だったり・・・。あるいは妓楼に揚がれば、粋な熊さんか野暮な熊さんかという話でしょう・・・。
 (ここで、私は何処何処藩の何々役の何の何兵衛なんていいだすと野暮の骨頂、裏浅黄と呼ばれるわけでして・・・ 笑 )

 更に狂歌の世界となれば(熊さんと狂歌って似合いそうに無いですが)、狂歌名(今で言えばハンドル・ネーム)になる訳でしょうから、上手い狂歌が造れるかとか、粋な振る舞いが出来るかどうかだけが重要でしょうし。


 何を書いているのか自分でも良く解らなくなって来ましたが・・・・笑 。


 *つまりは(自分の存在の)意味と言うもの、他者との関係性に拠り結構有機的に変わっている訳ですよね。絶対的な正しさって無い訳ですね(善悪=人の道と言うものは有りそうですが)。

 もしかするとそこに有ったのは、実は”お互い様”という事(価値観?)だけかも知れません。

 例えば熊さん、妓楼に揚がった場合、良い客、粋な客として振舞う事=客らしさを求められる訳ですが、当然逆に遊女も遊女らしさを求められる訳で・・・。
 座敷持ちは座敷持ちらしく、部屋持ちは部屋持ちらしく、端女郎は端女郎らしく・・・・。
 お互い様といいますか、お互いの関係性に拠り、意味=らしさが変わると・・・。

 しかし意味が互いの関係性に拠り有機的に変化するって・・・・・、
 その昔(70~80年代?)に流行った”ポスト構造主義”、確かこんな話では無かったですかね?
 とすると日本と言う国、江戸時代までは当たり前にポスト構造主義的生活をしていて、またそれが結構幸福そうですよね?(落語の世界=江戸の価値観で展開する庶民の世界でしょうから)


 またその中で人々(庶民)は、肩書き(上の何処何処藩の~~)では無く、職業やその場その場の立ち居地で生きていて、それは有る面、結構自由であった気もしますし、人間という生き物の性質にも合致していた気もするのですよね。

 全てとは言いませんが江戸の人々、サラリーマン的ではなく職人的だった気がします。
 現代は結局、企業といった”わくぐみ”の力が強くなりすぎたのかも知れません。
 落語の世界では逆に、肩書き(わくぐみ)で生きざるを得ない武士の悲哀なんて物もある気がしますしね(笑い飛ばしてる?)。

 

 私自身構造主義なんて良く知りませんが、科学的な正誤や正しさなんて物が必要以上に重要視・絶対視され強要されるのって一寸辛い気がしますね。
 
 お互い様といった感じで、適度に気を使いながら暮らすのが楽しそうです。
 

 

スポンサーサイト

Copyright © ますた [バーテンダーと呼ばれる程のバカは無し] All rights reserved.

COMMENT:

SECRET: (管理者だけに表示を許可する場合)
 
トラックバックURL :