2015/07
03
[ #730 ]

オートバイというもの・・・

 私という人間、初めて免許を取得した17歳、それ以来細く長くといいますか・・・、しつこくオートバイに乗り続けています。我ながらよく飽きない事だと思います。何故なのかといった事、また前回の追記にも少し書いたのですが、群馬県での事故のニュースを見た事もありオートバイという存在について少し考えてみたくなったのです。
 
 


 ”オートバイという物”に付いて考えるとは言いましても、それこそ視点の設定の仕方は無限に有る訳ですから、当然の事ながらその定義付けも無限に出来る訳ですが、今回はあえてこう定義付けして考える事を始めてみようかと思っています。

 それは・・・・。


 オートバイとは現代的商品(の一つ)である。

 何だか、同じ単車乗りの方からは嫌われそうな定義付けですね・・・・ 笑 。


 しかしながらオートバイが誕生した極初期は別として、その殆どが工場等で造られ、バイク屋等でお金を支払って購入する物ですから商品には間違い無い訳ですよね?
 (尤も一度購入し個人の所有物に成ってしまえば別の位相が現れる事も確かでしょうが・・・・)

 では、更に枕詞に付けた”現代的”とは何なのか?という話ですが・・・・、

 恐らく現代より前の商品という物は基本的に実用品であったということ、言い換えれば実用性が最重要視されていたであろうと思われるという事。
 例えば食料にしろ布地にしろ道具にしろ、実用品として購入されていたと想えます。

 では、現代になり何が変わったのか?現代的商品とは何なのか?

 
 恐らくですが、現代的商品という物には実用性に加えてある種のイメージ(幻想)が付加されたのでしょう。
 あるいは、そのイメージが占める割合が非常に大きくなった商品というべきか。

 詰まり、その商品を購入(して使用)すれば、自分が偉くなった思えるとか、より幸福になれる(かも知れない)とか、かっこよく見られる(かも知れない)・・・・・、等々の幻想が付加された・・・・と。
 購入者はある種、そのイメージ(付加価値?)に対し代金を払っていると。

 例えばイメージ広告なんて物がありますが、正にそれを表していると思いますし、また高級品といわれるものやブランド品等の広告などでよく使用される”ステイタスシンボル”なんて言葉もそれを良く表している気がします。
 詰まり、その商品を購入すれば自分のステイタス=(社会的)地位が向上したと思える、幻想が持てる、という商品だという事ですよね。 
 

 こんな事を書きますと、近代以前だって高級品は存在したではないですか?と言われそうです。

 確かに・・・・。

 唯、近代以前は基本的に、その人の地位や職業、立場や状況に拠って持つべき物が規定されていた訳で、それが現代では持ち物が地位を規定するという幻想が流布された・・・・・、順序が逆になってますよね。
 (それまでは社会的地位のある人たち(=貴族等)はそれなりの物を見に着けるべき、現代は高い物を持つ人が地位が高いように見える・・・・かもしれない)

 何だか話がどんどんオートバイからずれている気が・・・・・。


 これより本題。

 実はオートバイも商品である以上やはりそうした幻想からは自由では無い訳で・・・・(故に現代的商品とした訳です)。
  
 このオートバイに跨れば・・・・、もしかするとかっこ良く見られるかも知れない、速そう上手そうに見えるかも知れない、偉そうに見られるかも知れない、自由が手に入るかも知れない、遠くに行けるかもかも知れない、幸福に成れそうな気がする・・・・・・といった幻想は購入動機として少なからず有りそうですよね?(私だって、いい年して若いやつが乗るような単車には乗りたくないな・・・・何て気持ちも少し・・・・・笑 )
 勿論それが全てでは無いですが、ステイタスシンボルなんてコピーが付きそうな面も有ります。

 では、実際にはどうなのか?といいますと・・・・・。現実には、あるいは他者から見るとどうでも良い気も・・・・・。
 たとえ最新型の1000ccクラスのスーパースポーツに跨ったからって、オートバイに興味の無い方から見れば、???。ですよね?
 まあ、最近急速に見かける回数が増えた気のする某米国製の大型オートバイだけは例外という気もしますが・・・・、これだけはオートバイに興味が無い人達にも名前(ブランド名)が浸透している訳で・・・・・(故に売れているのでしょう)。 
 
 それにしたって、ホテル等で行われるパーティーや冠婚葬祭にオートバイで出席する事自体が、やや問題も有る訳で・・・。
 やはりオートバイという存在は非常に個人的なもの個人的幻想(趣味)と親和性が高い存在(商品)という物なのでしょう。

 こう書きますと、殆どのブランド品だってそうした物でしょ?といわれそうです。時計だって、鞄だって個人的趣味で買うわけだし・・・・。
 確かに。だからこそ現代的商品だと書いた訳です・・・・・。


 唯、・・・・。
 唯一つ、それらと明らかに異なるのは・・・・。


 オートバイという物、あるいはそれを使用するという事は、”危ない”と言う事。


 例えば、ある男性が、生まれて初めて購入する腕時計に300万のロレックスを選択し、それを腕に嵌めた、それ故に死んだ・・・。これは変ですよね?同様にある女性が始めて買うバックにエルメスのケリーを選び、それを持った、故に死んだ・・・・。これもありえないですよね?

 しかし、ある人が生まれて初めて買って乗るオートバイに1000ccのスーパースポーツタイプを選択し、事故で死んだ・・・・。
 ”ヤッパリネ”とか”当然だよね”となりますね。

 そうなのです。危険なのです。

 言い換えれば、それを使用する事に対し、最低限の理性や経験、技術、判断力、想像力、知性、作法、・・・・・・・。こうした物が必要とされる商品は殆ど他に無い気がします。あるいは持っていないと怪我や事故の可能性が非常に高くなるという商品。

 改めて特殊な商品ですね 笑 。

 特に大型の物。

 実利性ということを考えれば250ccクラスで恐らく十分な訳ですしね・・・・。


 しかし、乗る人間は結構多い。特にヨーロッパなんて・・・・・。

 何故か?


 想像ですがオートバイに乗るという行為、登山に近い気もします。

 登山も遭難事故等起きますと、人様の迷惑も考えず山なんか登って、何故あんな危険な事を・・・・等々の非難的の意見が出ますよね。   
 また登山もレベルが上がるほど、理性・経験・技術・判断力・・・・・・等々が求められるでしょうし、無いと事故率が上がる。
 此れも似ています。

 では何故、登山も無くならないのか?(一部で評価されるのか?)

 恐らく、オートバイに乗るという行為も登山という行為も共に、それを行うことに拠り、理性や判断力・・・・が鍛えられる、あるいは自ら鍛える・考えるという事に繋がるからでしょう。
 またそこから自然と(ボトムアップ的に)作法とかマナーといった物が生まれる可能性も高い訳で・・・・。
 我が国で言えば武道の様な物、あるいは禅の様な物に近い気がしますが・・・・・。
 (武術だって言わば人殺しの手段・暴力とも言える訳で・・・・、禅だって言わば究極の個人的行為といえそうですし)


 唯、日本の場合、この個人的に(自ら・下から)・・・・・という部分がやはり理解されない、故に嫌われる様にも思えます。
 
 

 何だかまとまりが無くなってしまいました。
 
   

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